結城政朝
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結城 政朝(ゆうき まさとも、文明11年(1479年) - 天文16年(1547年))は下総国の戦国大名。下総結城氏第15代目の当主。結城氏広の子。結城政直・政勝・小山高朝の父。妻は宇都宮成綱の娘。左衛門督。
父が二歳のときに死没したため、わずか三歳で家督を相続する。しかし政朝が幼少であることをいいことに、実権は重臣の多賀谷和泉守に握られ、その専横を許すことになってしまった。また、一族の山川氏の山川景貞が家督相続に干渉し、景貞の子(結城基景)が結城氏の養子となっていたともいわれる。
だが、成人した政朝は多賀谷和泉守を一気に誅殺し、実権を奪回したのである(死因は不明だが、景貞も同時期に死去している)。そして結城氏の家中を取りまとめ、結城氏を戦国大名として脱皮することにも成功した。さらに領土拡大政策を積極的に行ない、宇都宮氏と猿山で戦って大勝し、芳賀興綱らと図り宇都宮忠綱(成綱の子)を追放するなど、下野にまでその勢威を拡大したのである。
1527年、子の結城政直に家督を譲って隠居したが、その後も小田氏などと抗争を繰り広げた。政朝は、「結城氏中興の祖」とまで言われている。天文16年(1547年)7月13日没。法名は永正寺殿宗明孝顕大居士。