安部公房
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安部 公房(あべ こうぼう、1924年3月7日 - 1993年1月22日)は、東京府北豊島郡(現東京都北区)生まれ(本籍地は北海道旭川市)の小説家、SF作家、劇作家、演出家、脚本家。本名公房(きみふさ)。
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[編集] 来歴
幼少期を満州で過ごす。1940年に満州の旧制奉天第二中学校を卒業。帰国して旧制成城高等学校(現・成城大学)理乙に入学し、戦時下のため繰上げ卒業、1943年に東京帝国大学医学部医学科に入学。在学中の1947年に、後年安部の作品の装丁や舞台美術を手掛ける事になる真知夫人と結婚。1948年に卒業するも医師国家試験に失敗。
1947年に、安部は満州からの引き上げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、ガリ版印刷により自費出版した。詩人ライナー・マリア・リルケや哲学者マルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と、現実との対決の意思が強く込められていた。
同じく1947年に、安部は『粘土塀』と題した処女長編を、成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎の許に持ち込んだ。この長編は、一切の故郷を拒否する放浪の後に、満州の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、三冊のノートの形式を取った物語であった。『粘土塀』の内容に深い感銘を受けた阿部は、この作品を文芸誌『近代文学』の創刊者の一人である埴谷雄高に送り、『粘土塀』の内の「第一のノート」が、翌年2月の『個性』に掲載された。この作品が縁となって、安部は埴谷雄高、花田清輝、岡本太郎らの運営する「夜の会」に入会した。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月に、『粘土塀』は『終りし道の標べに』と題されて、真善美社から一冊の単行本として刊行された。埴谷は、安部を高く評価しており、後の『壁』の書評においては、安部が自分の後継者であるばかりか、自分を越えたとまで述べている。
1950年には、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成した。
1951年、『近代文学』2月号において、安部の短編『壁―S・カルマ氏の犯罪』が発表された。『壁―S・カルマ氏の犯罪』は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発された作品であり、テーマとして満州での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が含まれていた。『壁―S・カルマ氏の犯罪』は、1951年上半期の第25回芥川賞を、石川利光の『春の草』と同時受賞した。選考会の席上で、『壁』は選考委員の宇野浩二から酷評されたものの、同じく選考委員の川端康成および滝井孝作の強い推挙が受賞の決め手となった。同年5月に、『壁―S・カルマ氏の犯罪』は、『S・カルマ氏の犯罪』と改題の上、短編『バベルの塔の狸』および短編集『赤い繭』と共に、石川淳の序文を添えて、安部の最初の短編集『壁』として出版された。
1950年代には、前衛芸術の立場に関心をもち、野間宏とともに『人民文学』に参加する。その流れで、『人民文学』が『新日本文学』と合流してからは新日本文学会に所属し、日本共産党に所属していた時期もあった。しかし、1961年に、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場から、党の規律にそむいて、意見書を公表し、その過程で党を除名された。
1992年12月25日深夜に脳内出血で倒れ、退院後に自宅療養を続けるが、1993年1月20日から症状が悪化し、1月22日早朝に急性心不全により死去。
カフカやフォークナーと並ぶ世界最大の作家と大江健三郎は位置付けている。
日本人で初めてワープロで小説を執筆した作家である(1984年から使用)。使っていたワープロはNECの『NWP-10N』と『文豪』であった。また、ピンク・フロイドの大ファンであり、まだ普及する以前に、シンセサイザーを購入し、使用していたなど意外な一面を持っていた。(その当時シンセサイザーを所有していたのは冨田勲、NHK(電子音楽スタジオ)、そして安部の三人のみだったが、職業的な面以外で使用していたのは安部のみである。)NHKで放送されたインタビュー番組では、所有機で自身の演劇作品のために、自ら製作した効果音等を公開している。
ジャッキを使わずに巻ける簡易着脱型タイヤ・チェーン『チェニジー』を発明したことでも有名。
[編集] 略歴
- 1948年 - 処女小説『終わりし道の標べに』を刊行。
- 1950年 -「赤い繭」で戦後文学賞を受賞。
- 1951年 -「壁 S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞。
- 1958年 - 戯曲『幽霊はここにいる』で岸田演劇賞受賞。
- 1963年 -『砂の女』で、読売文学賞を受賞。
- 1967年 - 戯曲『友達』で谷崎潤一郎賞を受賞。
- 1968年 -『砂の女』でフランスの最優秀外国文学賞を受賞。
- 1973年 - 田中邦衛、井川比佐志、仲代達矢らと演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、主宰。
- 1974年 - 戯曲『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞。
- 1977年 - 米国芸術科学アカデミー名誉会員に推される。
- 1986年 - 簡易着脱型タイヤ・チェーン『チェニジー』により「第10回国際発明家エキスポ86」で銅賞を受賞
- 1992年 - 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし入院。
- 1993年 - 1月22日、急性心不全のため、死去。
参考
- 『砂の女』は1964年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、出演:岡田英次、岸田今日子。
- 死後、『飛ぶ男』などの遺作が、ワープロのフロッピーディスクから発見されるという、当時としては珍しい遺作の発見のされ方が話題となった。
[編集] 作品リスト
[編集] 小説
- 『カンガルー・ノート』
- 『R62号の発明・鉛の卵』
- 『カーブの向う・ユープケッチャ』
- 『けものたちは故郷をめざす』
- 『飢餓同盟』
- 『砂の女』
- 『終りし道の標べに』
- 『笑う月』
- 『水中都市・デンドロカカリヤ』
- 『石の眼』
- 『他人の顔』
- 『第四間氷期』
- 『燃えつきた地図』
- 『箱男』
- 『壁』
- 『方舟さくら丸』
- 『密会』
- 『夢の逃亡』
- 『人間そっくり』
- 『榎本武揚』
- 『飢えた皮膚』
- 『闖入者』
- 『棒』
- 『飛ぶ男』
[編集] 戯曲
- 『無関係な死・時の崖』
- 『友達・棒になった男』
- 『幽霊はここにいる・どれい狩り』
- 『緑色のストッキング・未必の故意』
- 『安部公房創作劇集』
- 『安部公房戯曲全集』
[編集] 映画
- 『壁あつき部屋』 脚本
- 『おとし穴』 原作・脚本
- 『砂の女』 原作・脚本
- 『他人の顔』 原作・脚本
- 『燃えつきた地図』 原作・脚本
- 『友達』 原作
[編集] 評論
- 『死に急ぐ鯨たち』
- 『内なる辺境』
- 『反劇的人間』(ドナルド・キーンとの共著)
- 『砂漠の思想』
- 『猛獣の心に計算器の手を』
- 『裁かれる記録』
[編集] 詩集
- 『無名詩集』 (自費出版)
[編集] 紀行
- 『東欧を行く』
[編集] 関連人物
[編集] 参考文献
- 谷真介『安部公房レトリック辞典』(新潮社)
- 谷真介『安部公房評伝年譜』(新泉社)
- 安部公房 『砂漠の思想』 ISBN 4-06-196255-8
[編集] 外部リンク
- Abe Kobo(英語)