安藤組
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安藤組(あんどう・くみ,ぐみ)は、かつて日本に存在した「やくざ」団体の名称である。母体とされる東興業(あずまこうぎょう)は渋谷道玄坂に事務所を構え不動産取引や芸能興行を主たる業務として1952年に発足した法人組織。1964年に解散。首魁は後に映画俳優となった安藤 昇。
集団構造は親分乾分の連結軸を持たず、安藤と兄弟分の盃を交わした「舎弟分」と呼ばれる関係にあった不良を中核とした小派閥集団であり、この点で他の愚連隊と呼ばれる団体と大差はない。運営方針は指詰めを禁止したり、入れ墨を嫌ったなど都会的でスマートな安藤の個性を大きく反映している。病理集団としてのやくざを成立させる貧困や差別といった背景を持たずに朝鮮戦争の特需景気を背景に繁華街の渋谷に誕生した点から「軟派」と見る向きもある。
組織編制は時に流動的。反面、制約を嫌う不良青少年の支持をえた。初期の構成員に大学生が多かった点から学生やくざの別称を持つ。構成員には丸にAの文字が入ったバッジが与えられたが、幹部も組員も同じバッチで統一。安藤本人の著作であるノンフィクション『激動』では安藤組は都内の料亭を借りて賭場を開いていたとしている。渋谷は安藤の進出(※)以前の明治期から落合一家がシマとして守っている。※安藤は大久保の素封家出身。
博徒の縄張防衛は死んでも守るとして「死守り」と呼ばれるが山平重樹の『賽の目血風伝』によると落合一家の高橋岩太郎総長は、中野の万年東一より安藤を紹介されると渋谷での活動には庇護を与え、賭場の運営も許している。このため安藤組は賭場の収益の中から地代を高橋に払っていたものと推察されるが、ヒエラルキーを構成するやくざ社会においては愚連隊が名門博徒のシマ内で堂々と賭場を開いているのは白眼視された。『実話ナックルズ』での安藤のインタビュー記事ではこの高橋との交流についても本人が証言をしている。
同じく渋谷を庭場とする的屋の武田組(武田一郎組長。飯島連合会)とは前述の『激動』で仮名となっているが親分の武田と安藤は親交があったとされる。反面、武田組や武蔵小山の伝統的硬派少年の流れを汲む鹿十団と安藤組はモメ事を起こしていたとも記述している。
当該社会の座標軸としては安藤が中野の万年東一と盃なしの親分乾分の関係を結んでいる。宮崎学の著作『不逞者』によると東興業の“東”は万年東一に因むとされる。この意味で反共暴力団として知られた万年一家の別働隊とも見れるがイデオロギー色は限りなく薄い。西新宿の政治結社誠友社(加納貢)、銀座の大日本興行(高橋輝男)と同盟関係にあったが、彼らも一時、万年の門下にあった。余談だが、当時の新宿は小金井一家の、銀座は生井一家(篠原組)の縄張りである。
後に関東やくざ社会の金看板となった村山洋二(弥根家一家総長)は、当時の安藤は東京でも珍しい外車を乗り回していたと『実話時代』で語っている。この点から、赤坂の外車ディーラーや上流階級とも付き合いがあったと推察される。1958年6月11日に債権回収のトラブルから横井英樹を組員の千葉一也が首脳部の教唆により拳銃で狙撃。重傷を負わせたことにより安藤を始めとして大幹部の多くが指名手配された。裁判の結果、幹部の多くは懲役に処せられる。安藤の長期社会不在の間、他の幹部より早く出所した花形 敬が代行を務めるものの、渋谷に進出する大手組織を相手に頽勢を挽回することは叶わなかった。
1964年に安藤が出所し、一時期、勢いが回復すると見られたが、1964年12月に渋谷公会堂にて安藤組の解散式を行い、12年の歴史に幕を閉じた。出所直前に花形 敬、また、出所直後に西原健吾を失ったことなどから安藤は引退を決意したとされるが真意は不明のままである。
[編集] 主な構成員
主なメンバーは下記の通り。
- 安藤 昇(社長) - 法政大学中退
- 有賀秀雄(大幹部、専務)
- 島田 宏(大幹部、参謀格)-別名、久住呂濶。六法に通暁した異才。軽井沢のサナトリウムで没す。病名は結核。
- 志賀日出也(赤坂支店長) - 元落合一家で日本天狗党にも加盟していた。解散後は住吉連合の常任相談役。細木数子の姉の夫。故人。
- 須崎清(大幹部。安藤 昇の代人と用心棒)故人。
- 花形 敬(大幹部) - 明治大学予科。故人。
- 花田瑛一(大幹部、営業責任者) - 専修大学。のちに大行社の岸悦郎と兄弟分の盃を交わす。俳優顔負けの美男子。故人。
- 石井福造(大幹部) - 国士舘中学。後に住吉連合常任相談役を経て住吉会系石井会(現・住吉一家石井会)会長として西口会長の住吉会で副会長に就任。
- 森田 雅(大幹部) - 高輪学園。鹿島神流國井道之の高弟橋本鎮之助に師事し、世田谷上馬に鹿島神流錬心館道場を開く。安藤組の戦闘部隊長。花形敬襲撃事件その他の罪で小菅刑務所に収監されるが、懲役中に安藤組が解散する。出所後は一時母のトンカツ屋を手伝うものの、武術の世界で生きることを決め、福岡ついで静岡で道場を開く。日本青年社の剣道師範も勤めた。故人。
- 瀬川 康之(大幹部) - 新宿の飯島一家小倉二代目の尾津喜之助(関東尾津組)から目をかけられたが暴れすぎて渋谷の安藤組へ。解散後は関西へ移り五代目酒梅組の若頭補佐。その後、独立組織を立てる。故人。
- 小笠原郁夫(大幹部) - 周囲からは最も安藤の言動に心酔していた存在と見られており、安藤自身もこの点を認めている。
- 西原健吾(幹部) - 国学院大学。昭和39年11月に稲川会(当時は錦政会)との掛け合いでこじれ銃殺される。同席した矢島武信は重傷を負う。
- 大塚稔(幹部)- 元・ボクサーで東日本の新人王。解散後は残党に合流後引退。大日本一誠会会長。全日本愛国者団体会議の議長団の一人。
- 矢島武信(幹部) - 立教大学。解散後は立教大学の一派を率いるが、小金井一家に養子縁組。後に堀尾総長がシマをチギッて新宿東貸元の初代となる。故人。
- 黒木健児(幹部) - 法政大学
- 西条剛史(幹部) - 法政大学
- 佐藤昭二(幹部)-国士舘大学。柔道の猛者であだ名は佐藤柔道怪人とは別人。
- 庄司 茂(幹部)
- 三吉(幹部) - 元は館崎直也(安藤 昇の兄貴分)の舎弟
- 野田克己(幹部)
- 杉本法介 - 立教大学
- 千葉一弘 - 横井英樹襲撃犯。解散後は住吉連合常任相談役。住吉会住吉一家石井会相談役 千葉組組長?
- 桜葉 潔
- 浅川良吉
[編集] 関係した主な事件
- 横井英樹襲撃事件
[編集] 関連書籍
- 「やくざと抗争」
- 「激動」
- 「修羅場の人間学」
- 「闘いて候」
- 「疵 花形敬とその時代」