安田猛
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安田 猛(やすだ たけし、 1947年4月25日- )は、福岡県北九州市出身。昭和後期(1970年代-1980年代前半)のプロ野球選手(投手)である。左投げ左打ち。背番号は22(後に高津臣吾に引き継がれる)。
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[編集] 来歴・人物
小倉高、早稲田大学、社会人野球の大昭和製紙を経て、1971年にドラフト6位でヤクルトアトムズに入団。早大時代は二番手に甘んじたが、社会人に進み頭角を現し、都市対抗野球で最高殊勲選手=橋戸賞を獲得。技巧派投手として入団当初から活躍し、1年目に7勝5敗、防御率2.08の成績で新人王と最優秀防御率のタイトルを獲得、翌年にも防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。小柄なサイドスローの投手で、抜群のコントロールと緩急自在の投球術、機敏な動きからペンギン投法と呼ばれ、名投手としてファンに親しまれた。1973年7月16日の阪神タイガース戦から9月9日の阪神戦まで81イニング連続無四死球のプロ野球記録を樹立。田淵幸一への敬遠四球で始まり、同じ田淵幸一への敬遠四球で記録が止まった。1975年から1978年まで4年連続2桁勝利を挙げた。1981年に引退。引退後はヤクルトの投手コーチ、スカウトを経て、現在は編成部長。
[編集] エピソード
ヤクルト入団後も「社会人時代の苦労を忘れたくない」とオフには牛乳配達などのアルバイトをしていたという逸話がある。プロに入った理由は「金でも、名誉でもない。ただ一つ、王さん、長嶋さんと勝負したかった」から。引退のときにも「女房に言われました。『王さん、長嶋さんという最高の打者と勝負できてこんな幸せな投手っているの?』その通りですよ」とコメントしている。
いしいひさいちの漫画『がんばれ!!タブチくん!!』では、彼をモデルにしたと思われる『ヤスダ』投手が登場し、数々の魔球を披露している(なお、チームメイトの大矢明彦も『オーヤくん』で登場)。ちなみにこれに対する彼へのお礼は『がんばれ!!タブチくん!!』映画のペアチケットだけだったらしい。本人も自分とは別物として考えていたというエピソードがある。ちなみに後年、雑誌「ナンバー」にて、野村克也氏からヤクルト監督時代のスコアラーとして「名スコアラー」との賛辞を受けている。
阪神タイガースには滅法強く「阪神キラー」と呼ばれていた。タイガースファンは「先発安田」となると半分負けを覚悟した。その安田が飄々とスローボールで阪神打線を手玉にとるのであるから、ファンの欲求不満は高まるばかりであった。
王貞治がハンク・アーロンの本塁打記録更新に王手をかけて、国中が熱狂していた時の事である。他のチームの投手は新記録を打たされるのを恐れ敬遠の四球ばかり投げていた。そんな中、安田は巨人戦で真っ向勝負を挑み本塁打を打たせなかった。「度胸七分に技三分」が彼の投球術であったが、まさに気迫が乗り移った投球で、これぞプロと絶賛された。
[編集] 通算成績
- 358試合 93勝 80敗 17セーブ 59完投 13完封 655奪三振 1508.1投球回 防御率3.26
[編集] タイトル・表彰
- 最優秀防御率2回(1972年、1973年)、新人王(1972年)