大運河
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大運河(だいうんが、ターうんが)とは大きな運河のことであり、この言葉を使う場合は中国の杭州から北京へと繋がる運河とベネツィアにあるカナル・グランデを指す事が多い。この項では中国の大運河について説明する。
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[編集] 中国における大運河の概要
[編集] 建造の背景
西晋の滅亡以後、中国は300年近い年月に渡って南北に分裂していた。南北が中々統一されない原因として、淮水・長江の間に網の目上に走る小河川が進軍の足を鈍らせることにあり、曹操が敗北した赤壁の戦い・苻堅が敗北した淝水の戦いなども北の騎馬軍団が南の水軍に敗れたと言う側面がある。
[編集] 煬帝の開削
北周から禅譲を受けて隋を建国した楊堅(文帝)はこの問題を解決するために587年に淮水と長江を結ぶ邗溝(かんこう、山陽瀆(さんようとく)とも)を開鑿し、589年に陳を滅ぼして、南北を統一した。
604年に二代皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が始まる。
まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠( - きょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北より浙江へと繋がる大運河が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500kmを越える。
通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて5ヶ月で完成された。このことで後の世より暴政と批難され、更にこの運河を煬帝自身が竜船(皇帝が乗る船)に乗って遊覧し、煬帝が好んだ江南へと行幸するのに使ったことから、「自らの好みのために民衆を徴発した。」などとも言われるようになる。
だが、大運河は一から全てを作った訳ではなく、それまでに作られていた小運河を繋げることで通した部分がかなりある(その点を差し引いてもかなりの無理で急速すぎる工事であったことは否めないが)。それに大運河の建造は南北の統一を確かなものとし、江南の物産を河北にもたらすのが主目的であることは明らかである。また永済渠の目的は高句麗遠征のためであった。
[編集] 開削の効果
大運河が開通したことで、経済的に優越していた南が北に連結し、中国全体の流通が高まった。その経済的・文化的・政治的な影響は計り知れない。また、大運河の建設に多くの人々を動員して苦しめた事を隋朝打倒の大義名分の一つとして建国された唐王朝こそが実は大運河からの最大の受益者であり、地元の生産力では支えきれなくなった首都長安の食糧事情を安定させる事が出来たのも実は大運河による物資の運送能力によるところが大きかったのである。
開封は永済渠と通済渠の結節点になっており、このことにより経済的な重要性を高め、五代十国時代から北宋の首都となったのである。北宋の開封城では城内を運河が貫通していた。
[編集] 衰退と新経路による開削
しかし金が華北を占領すると当然大運河の流通も止まり、整備もされなくなり、寂れてしまう。その後、元が南北を占領した後に新しい運河を開いた。
元では首都が大都(北京)に置かれていたので、一旦開封を回って北京へ至るそれまでの大運河は不便であった。そこで杭州から北へ進み天津へ繋がる運河を開鑿した。元代では海運が発達し、対外貿易を主にしていたためにそれまでに比べると重要度が落ちていた。
明代に入り、永楽帝により北京へと遷都されると再び重要度が増した。明は海禁策(貿易禁止)を取っていたため、再び水運が見直されたのである。明によってまた新たに開鑿され、杭州から北へ進み淮安→徐州→済寧→滄州→天津となる運河が現在の大運河となった。
清末期に再び貿易が活発化したことで重要度が落ちたが、中華人民共和国に入り整備が行われ、2000トン級の船が通交できるように改修工事が行われている。