大石清
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大石 清(おおいし きよし)は1940年4月3日・静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身のプロ野球選手。右投右打の投手、野球解説者。
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[編集] 来歴・人物
静岡県立静岡商業高等学校卒業後、広島カープに入団。同期入団選手にはのちに阪急ブレーブスでもコーチとして同僚となる上田利治がいた。
選手の給料もままならない弱小・広島において1年目から39試合に登板し、投手陣の柱となる。2年目からは3年連続して20勝をあげ、衰えの見えた長谷川良平に代わりエースにのし上がった。剃刀に似た速球ストレートとスライダーを武器にカープ史上最速のピッチャーと称された。1960年、1962年、1964年とオールスターゲームに出場。
1966年オフ、大洋ホエールズから大石獲得の申し出があり広島側は交換相手として長田幸雄を要求するものの決裂。かねてより投手補強を目論む広島は次に阪急ブレーブスの大石弥太郎に目を付ける。結果、大石清⇔大石弥太郎の世にも珍しい「大石交換」が成立した(ちなみに「広島の大石」を諦めた大洋は次に「阪急の大石」に狙いを定めた)。
1967年ごろの阪急投手陣には足立光宏、米田哲也、梶本隆夫ら10年選手が腰をすえており、大石の勝利数は広島在籍時より少なくなったが、リリーフとして毎年40試合以上に登板した。移籍1年目にいきなりチームは優勝する。阪急にとっては球団創設32年目にして初優勝だった。無論、弱小・広島にいた大石にとっても初の優勝だった。その後、阪急は3年連続優勝を遂げ黄金時代を迎える。
引退後、指導者としての素質が開花。投手コーチとして阪急(1972年-1974年)→近鉄(1975年-1976年)→広島(1977年-1981年)→日本ハム(1985年-1987年)→阪神(1988年-1994年)→日本ハム(1995年-1997年)→近鉄(1999年)と30年間で5球団を渡り歩く。この間、阪急・広島で2度優勝を経験する(広島コーチ時代の1979年・1980年には日本一も経験)。リーグ優勝ではないものの近鉄コーチ時代の1975年にはパ・リーグ後期優勝にも関わる。
コーチ業の間を縫う形でTBS、中国放送の野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家も務めた。
[編集] 通算成績
- 公式戦(実動12年:1959年-1970年) 登板516試合 勝利134 敗戦126 完投88 完封13 奪三振1381 投球回2157.1 防御率3.00
- 日本シリーズ(1967年-1969年) 登板9試合 勝利0 敗戦1
- オールスターゲーム(1961年、1963年、1965年) 登板6試合 勝利0 敗戦1
[編集] エピソード
ルーキーイヤーのオープン戦(対南海)で4死球を出し大沢啓二にバットを投げつけられると、そのバットを南海ベンチに投げ返した。