大河兼任の乱
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大河兼任の乱(おおかわかねとうのらん)は、1189年(文治5)12月~翌年3月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏残党である大河兼任らとの間で東北地方にて行われた戦いである。
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[編集] 経緯
奥州合戦の直後より藤原泰衡の郎従であった大河兼任は鎌倉政権への叛逆を企てていたが、1189年(文治5年)12月、伊予守義経、左馬守義仲の嫡男朝日冠者と称して、出羽国に挙兵した。『吾妻鏡』によると総勢7000騎で鎌倉に向い、まず多賀国府を目指した。時系列は定かでないが、このとき凍った八郎潟の湖上を渡る途中で氷が割れて5000人が溺死したという。
しかし由利中八維平を小鹿島の大社山毛々左田の辺(現秋田県秋田市大森山・新屋付近か?)に、津軽では宇佐見平次を討ち取った。
鎌倉では、翌年1月8日に海道の大将を千葉常胤、山道の大将を比企能員とし、1月13日には足利義兼を追討使とした。
平泉に入った兼任軍は10000騎に上っていたが、栗原郡一迫(現栗原市)で追討軍と衝突、壊滅的打撃を受け敗走し、3月10日兼任は栗原寺で地元の樵に立派な具足を怪しまれ、斧で斬殺された。
[編集] 逸話
[編集] 敵討ちの元祖
『吾妻鏡』に、兼任の言葉として「古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常のことなり。いまだ主人の敵を討つの例あらず。兼任独りその例を始めんがために鎌倉に赴くところなり」との記事があることから、主君の敵討ちの元祖と言われている。
[編集] 頼朝の慧眼
葛西清重の戦況報告を聞いた源頼朝が、その報告中に小鹿嶋橘次公成討ち死に由利中八維平逃亡とあったことに対し、二人の性格から由利維平討ち死に橘次公成逃亡の間違いだろうと推察した。後発の詳細報告が到着し、頼朝の推察通りであったことからその場にいた一同皆驚いた。
頼朝が御家人一人一人の性格まで熟知していたことの例として語られる。