堀田氏
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[編集] 出自
なお、「寛政重修諸家譜」において、自らの出自について紀長谷雄の子孫とし、浦上氏・安富氏の本家筋にあたるとしている。しかしながら、これは室町時代に武家の名門として中央で活躍し、同じ紀姓を名乗っていた両家の威光を利用し自らの出自を粉飾したものである。江戸時代の新興大名に多く見受けられる仮冒系図の典型であり、この系図は信用することはできない。むしろ堀田氏は尾張国津島神社神官の紀姓堀田氏の流れと見るべきであり、津島神社に残る神官の堀田氏系図こそが、本来の彼らの出自を示している。
[編集] 戦国時代
江戸時代以前においては、斎藤氏、ついで織田氏、豊臣氏に仕えた堀田道空が著名である。もともと豊臣恩顧の一族であったが、道空の一族のうち堀田正吉が関ヶ原の戦い以後に徳川氏に仕えたといわれる。
[編集] 江戸時代
正吉の子の堀田正盛は母が稲葉正成の先妻との間の子であった縁で、正成の後妻・春日局の支援をうけ、徳川家光に近侍し重用された。若年寄・老中も歴任し、寛永19年(1642年)、下総佐倉十一万石の大名になった。
しかし、跡を嗣いだ正盛の長男・堀田正信は佐倉藩を改易されてしまう(松平信綱と対立したためとも、佐倉惣五郎事件の責任を問われたとも言われるが詳細不明)。しかし正盛の功績により正信の長男・正休はお家再興を許され、この系統は吉井藩後近江宮川藩主となった。
正盛の三男の堀田正俊は春日局の養子となり、徳川綱吉の時代に大老まで上り詰め、その子孫も譜代大名として幕府の要職を占めたため、こちらの系統が本家と見なされるようになった。幕末の藩主であった堀田正倫は譜代大名大藩であったこともあり、徳川幕府を擁護して改易のピンチにたたされたが、家臣の奔走により免れることが出来た。そして明治維新を迎えた。
[編集] 明治時代以降
明治17年、最後の宮川藩主であった堀田正養は子爵に、佐倉藩主であった正倫は伯爵となり華族に列した。しかし正倫は後継者となる男子に恵まれなかったため鍋島直柔の息子・正恒を婿養子として迎えた。その後の昭和2年の大恐慌は堀田家をも襲い、財産を失って貧窮の極みであったという。このことが後に政商・小佐野賢治が正恒の娘を妻とするきっかけにもなったといわれる。
戦後、正恒の長男・堀田正久は昭和34年に佐倉市長に当選、昭和50年まで4期に渡って務め、佐倉市の開発に貢献、彦根市長となった井伊直愛とともに「殿様市長」といわれた。
また、福島正則に仕え尾張に残った一族は、後に津島に帰郷し、更に酒造業を営んで財をなした。その邸宅は現在「堀田家住宅」として国重要文化財となっている。