吉井和哉
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吉井 和哉(よしい かずや、1966年10月8日 -)は、東京都出身静岡県育ちのミュージシャンである。本名は吉井一哉。「和哉」としたのは「一哉」の字面が悪いと言われた為。
1988年にロックバンド THE YELLOW MONKEYを結成し(吉井はボーカル・ギター・作詞・作曲を担当)、 1992年にメジャーデビュー、 その後2003年にYOSHII LOVINSON(ヨシイロビンソン)としてソロデビュー、 2004年にTHE YELLOW MONKEYを解散、 2006年に吉井和哉に名義を変更し、現在に至る。
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[編集] 人物
- 幼少の頃は肥満児で、それがコンプレックスだった。現在は痩せているが非常に太り易い体質である為、レコーディング中などのオフショットではまるで別人のようになっていることがある。また、すぐに過激なダイエットをして痩せるので、一時期「癌ではないか」、「実は余命○ヶ月(年)」などという噂が立っていたこともある。最近は年齢のせいもあり、過度なダイエットはしていない。ただし身長183㎝と長身であるため、さほど目立たないようだ。
- 本人曰く「実は根暗な性格」。中学生の頃は深夜ラジオを聴きながらマンガを描く毎日だったという。
- 義務教育終了と同時にフリーター生活、その後上京し「25歳までにデビュー出来なければ音楽は諦めよう」と決意。その後、25歳でデビューが決まり、26歳でメジャーデビュー。次に「30歳までにバンドがブレイクしなければ辞める」との目標を立て、28歳の時にシングル『太陽が燃えている』がTOP10入りし、29歳の時にアルバム『FOUR SEASONS』がオリコン一位を獲得した。
- THE YELLOW MONKEY初期は、デビッド・ボウイ、マーク・ボランを意識したグラム・ロックを展開していたが、『smile』以降はポップでキャッチーな楽曲を作るようになり、レコード会社をファンハウスに移籍してからは独自のロックを追及していった。
- バンド時代(特に初期)は派手なメイクや衣装で時には女装することもあった。
- オーディオマニアで、家には数百万円のオーディオシステムが組まれている。アルバム『8』のレコーディング中に、ディレクターがスタジオに置いてあったラジカセの音が悪いと言いって持参したラジカセと音を聞き比べたところ、余りの違いに愕然としたのがきっかけ。バンド活動休止後のオフの間は名盤と言われるレコードを改めて聴き直したとき、今までは気付かなかった自分とのクオリティの差を痛感し、一時期音楽をやめようとまで思ったという。
- ソロ名義YOSHII LOVINSON時代は逆説的な意図で戦車を使ったPVを作成するなどメッセージを発信。
- ソロになってからはあまり過度なメイクは施していない。YOSHII LOVINSON時代はジーンズにTシャツ姿でライブを行うこともあった。
- THE YELLOW MONKEYのメンバーとは現在でも交流があり、ベーシストであった廣瀬洋一の2003年活動開始のバンドHEESEY WITH DUDESのアルバムの中の1曲「ならず者アイムソーリー」で作詞を提供したが、提供料の相談が面倒になり「500円でいい」と伝えた。しかし、歌詞カードには、[Lyrics KAZUYA YOSHII]と表記されてしまった。印税を受け取ったかどうかは定かではない。因みに廣瀬は100円玉5枚で吉井に500円をはらったらしい。同じくギターの菊地英昭はソロになってからのライブのサポートメンバーであり、ツアーを共に公演している。
- DIOR HOMMEの服を好み、衣装としても頻繁に着ている。
- 何かと宣言しては、それを覆すことが多々ある。時の流れと共に考え方が変わるのは人として自然なことではあるが、短期間の内に覆してしまうのと、一々宣言してしまう癖がある。
- 2000年頃「もう金髪にはしない」と宣言し、黒髪の短髪にしたが、バンド活動休止後の2001年には金髪になっていた。
- YOSHII LOVINSONとして活動を開始した頃は「イエローモンキーは必ず再開します」と言っていたが、翌年に解散宣言。
- 2006年7月27日に行われたファンクラブ限定ライブのMCでは「吉井和哉、タバコやめました」と宣言。が、その後アルバムのプロモーション中に喫煙していた。
[編集] 来歴
- 2001年10月9日、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ 2001」に出演。
- 2003年10月1日、「YOSHII LOVINSON」として、シングル『TALI』でソロデビュー。
- 2004年2月11日、ソロ・ファーストアルバム『at the BLACK HOLE』リリース。
- 2004年12月26日、THE YELLOW MONKEYのボーカリストとして最後のステージ。
- 2005年6月4日より、初のソロツアー「AT the WHITE ROOM」スタート。
- 2005年10月7日、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ 2005」にYOSHII LOVINSON名義では最後のライヴ出演。
- 2006年1月25日、シングル『Beautiful』、ライブツアー「MY FOOLISH HEART」より名義をYOSHII LOVINSONから吉井和哉に改めた。
- 2006年10月8日、愛と狂気の30代から、「ポップな40代」へ突入。仙台、大阪でシークレットライブを行う。
[編集] ディスコグラフィー
※2003年~2005年にリリースされた作品は全て「YOSHII LOVINSON」名義
[編集] シングル
- TALI cw. TALI(seaside mix) / スティルアライブ(2003.10.01)(CCCD)
- SWEET CANDY RAIN cw. SPIRIT'S COMING (GET OUT I LOVE ROLLING STONES) / 70 GO (2004.01.09)
- トブヨウニ cw. BLOWN UP CHILDREN / HATE (2004.07.28)
- CALL ME cw. MUDDY WATER / FINAL COUNTDOWN (花王「サクセス」CMソング)(2005.01.13)
- BEAUTIFUL cw. HIKARETA / MY FOOLISH HEART (2006.01.25)
- WEEKENDER (2006.08.02)※オンライン配信限定
- BELIEVE (2006.09.20)※オンライン配信限定
[編集] アルバム
- at the BLACK HOLE (2004.02.11)
- WHITE ROOM (2005.03.09)
- 39108 (2006.10.04)
- 通常盤・初回限定盤・アナログ盤・プレミアム盤の4種類を同時発売。
[編集] DVD
- STILL ALIVE -YOSHII LOVINSON TOUR 2005 AT the WHITE ROOM- (2005.11.23)
[編集] 書籍
[編集] 著書
- 吉井和哉の○秘おセンチ日記(1996)ロッキング・オン ISBN 4947599464
- ROCKIN'ON JAPANでの連載をまとめたもの。
- 蜜色の手紙―吉井和哉格言集(1998)角川書店 ISBN 4048835572
- CDでーたでの連載をまとめたもの。
- So YOUNG―吉井和哉詩集(1999)ロッキング・オン ISBN 4947599669
- 初の詩集。未発表詩やインタビューも収録。
[編集] 関連項目
- 吉井が最も影響を受け、また最も尊敬するアーティストである。家にあるCDでは一番多いらしい。
- 上京したとき美輪の著書『紫の履歴書』を持っていった。雑誌での対談を機に知り合い、大成したのち美輪の前で歌を披露し、認められた。ソロになってから「僕らの音楽」に出演した際、吉井は対談の相手に美輪を指名した。
- 高級オーディオメーカー。「YOSHII LOVINSON」の元ネタである。シングル「SWEET CANDY RAIN」に封入されたステッカーは同社のロゴのパロディ。
- ブラックミュージック界の大御所。「YOSHII LOVINSON」の元ネタその2。
- 吉井は自身の著書で「ユニコーンのファン」と発言している。ソロになってからの音楽性も民生のそれと通ずるところがあり、他にも釣り、オーディオマニア、サポートミュージシャンなど共通点が多い。親交があり、民生の方が先輩にあたるが吉井は「民生君」と呼んでいる。日本テレビ「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」の企画「芸能人釣り選手権」では過去2回共にゲスト出演した。
[編集] 外部リンク
- YOSHII KAZUYA - 公式サイト