勧修寺
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勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。
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[編集] 沿革
900年(昌泰3年)醍醐天皇の生母藤原胤子の追善のため創建された寺で、外祖父藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。(法親王とは皇族男子で親王宣下後に出家した者。宮門跡とは代々皇族が住持を務める別格寺院のこと)
当寺は、醍醐天皇が生母藤原胤子の祖父(醍醐天皇には曽祖父にあたる)である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改めたものという。宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・列子は藤原北家の流れを汲む藤原高藤に嫁した。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺家という。
『今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。
勧修寺は南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子である寛胤法親王(かんいんほっしんのう)が入寺してから、宮門跡としての地位が確立した。
[編集] 境内
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表わしている。境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。
- 宸殿-元禄4年(1697年)に明正天皇の旧殿を下賜されたものという。入母屋造、桟瓦葺き(桟瓦は丸瓦と平瓦を交互に葺く「本瓦葺き」に対し、一般住宅で使用されるような形の瓦を指す)。内部は書院造である。
- 書院-貞享3年(1686年)に明正天皇の旧殿を下賜されたものという(後西天皇の旧殿とも)。入母屋造、柿(こけら)葺きで、一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。障壁画は作風から土佐派の画家によるものとされている。書院前の庭にある燈籠は徳川光圀寄進と伝え、「勧修寺型燈籠」と呼ばれる。
- 本堂-寛文12年(1672年)に近衛家の建物を移築したものという。本尊千手観音立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。
庭は勧修寺氷池園といいう池泉庭園である。中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。
[編集] 文化財
重要文化財
- 書院
- 蓮華蒔絵経箱
- 仁王経良賁疏
なお、奈良国立博物館所蔵の国宝「刺繍釈迦如来説法図」(奈良時代または中国・唐時代)はもと勧修寺の所蔵で、第二次大戦後に国有になったものである。
[編集] 所在地
京都市山科区勧修寺(かんしゅうじ)仁王堂町27-6