前田勝宏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田 勝宏(まえだ かつひろ、1971年6月23日 - )は、プロ野球・西武ライオンズ、中日ドラゴンズに所属した元投手である。
[編集] 略歴
150キロを超えるストレートを武器に即戦力を期待されたが西武での3年間は満足な成績を挙げられなかった。しかし1995年オフ、突如メジャーリーグ挑戦を直訴、任意引退も辞さない構えだった。1996年開幕直前まで騒動は続いたが最終的には堤義明オーナーの「行かせてあげれば」の一声で挑戦が実現した。
この後、野茂英雄に続く日本人として鳴り物入りでニューヨーク・ヤンキースに入団、傘下のマイナーリーグのチームに移籍した。タンパの教育リーグ施設でヤンキースの名物ビリー・コナーズ巡回投手コーチ(カブス時代”精密機械”マダックスを育てるなど実績がある)の基チェンジアップや、フォーム改造に取り組んだあと、Aタンパ・ヤンキースでアメリカデビュー。約1ヶ月後、AAノーイッチ(コネチカット州)に昇格し、その96年シーズンをAAで過ごした。
翌1997年からはトレイ・ヒルマン監督(現:日本ハム, AAノーイッチ<1997-1998>, AAAコロンバス<1999-2001>)の下でプレイするが好結果はだせなかった。3年目にはAAAコロンバスに昇格するが、レベルの高い打者との対戦で結果は出せずAAに降格した。結局、5年間プレイしたが、日本時代からの課題、制球難は解決せずメジャー昇格は果たせなかった。2001年には星野監督の中日ドラゴンズにテスト入団、日本球界に復帰したが、1軍登板は無くわずか1年で戦力外となった。2002年には台湾の興農、2003年はイタリアのボローニャ、2004年は中国の上海ゴールデンイーグルスで再び海外に活躍の場を求めた。
2005年からは専門学校であるアスピア学園にコーチ兼任投手としてアマ復帰、第76回都市対抗野球大会に三菱重工神戸の補強選手として出場する。
しかし2005年をもってアスピア学園は休部、チームを率いていた木立章成(元:阪神内野手)が、岩手県にできる新たなクラブチーム「岩手21赤べこ野球軍団」の監督に招聘されたことから、軌を一にし、2006年は、岩手21赤べこ野球軍団に移籍し、チームを都市対抗野球東北2次予選に出場させるばかりでなく、全日本クラブ野球選手権大会に創部年での初出場をもたらした(岩手県大会ではチームはすべてコールド勝ち)。
[編集] プロフィール
- 身長・体重 1m88cm、98kg
- 投打 右/右
- 出身地 兵庫県
- 血液型 B型
- 球歴・入団経緯 神戸弘陵高等学校 - プリンスホテル硬式野球部 - 西武ライオンズ - Aタンパ・ヤンキース、 AAノーウィッチ・ナビゲーターズ(1996) - AAAコロンバス・クリッパーズ(2000) - 中日ドラゴンズ(2001年) - 台湾・興農(2002年) - イタリア・ボローニャ(2003年) - 中国・上海ゴールデンイーグルス(2004年) - 関西野球専門学校・アスピア学園(2005年)
- プロ入り年度・ドラフト順位 1992年(ドラフト2位)
[編集] 日本での通算成績
カテゴリ: 日本の野球選手 | 西武ライオンズ及びその前身球団の選手 | 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 | ニューヨーク・ヤンキースの選手 | 台湾の球団の野球選手 | 中国の球団の野球選手 | 社会人野球の選手 | 兵庫県出身の人物 | 1971年生