内村鑑三
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内村 鑑三 (うちむら かんぞう、男性、文久元年2月13日(1861年3月26日) - 1930年(昭和5年)3月28日) は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
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[編集] 生涯
東京英語学校に入学して3年後、北海道開拓にあたる技術者を急造する目的で設立された札幌農学校に1876年(17歳)、入学する。新渡戸稲造、宮部金吾らと同級生となった。内村ら(第二期生)が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラーク("Boys be ambitious."「少年よ大志を抱け」)ということばで有名)ら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、ついにほとんど強制的に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。1878年6月2日には米国メソジストキリスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト信者たちは、日曜日には自分たちで集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分たちの教会を持つことを目標とするようになる。
1881年(21際)のとき、札幌農学校を卒業し、北海道開拓使に勤める。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に札幌基督教会を創立する。
1884年に私費で渡米し、拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後の何のあても持っていなかった内村は、医師であるI.N.カーリンと出会い、ペンシルバニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンにある精神薄弱児童養護学校で看護人として勤務することになる。翌年9月にはアマースト大学に選科生として編入する。在学中、同大学の総長であり牧師でもあるJ.H.シーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。 1887年に同大学を卒業し、Bachelor of Scienceの学位を受ける。 1888年1月までハートフォード神学校で学業を続け、5月に帰国した。
帰国した1888年9月から新潟県の北越学館で勤務したのち東京に戻り、東洋英和学校、水産伝習所などで教鞭を執る。1890年から第一高等中学校の嘱託教員となったが、翌1891年1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼をおこなわなかったことが同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化する。内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。この後、泰西学館、熊本英学校、名古屋英和学校と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒のなぐさめ』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』 How I Became a Christian をはじめ、多くの著作・論説を発表した。
1897年に上京、黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し、同社発行の新聞『万朝報』英文欄主筆となった。 翌年には退社するが1900年からは客員として寄稿した。 1898年に『東京独立雑誌』を発刊し主筆となり、1900年には『聖書之研究』、1901年には『無教会』を創刊した。 この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。また黒岩や堺利彦、幸徳秋水らと社会改良を目的とする理想団を結成した。
人格的には慈愛に満ち、高潔で、強固な意志の持ち主である反面、非常に短気で激昂しやすく、人間の好悪の感情が強く自分に好意を示してくれる人には信義が厚いが、その反面、反対者に対しては辛辣な攻撃を加える二面性があったとされる。[要出典]
[編集] 著作
- How I Became a Christian(『余は如何にして基督信徒となりし乎』)
- 『求安録』
- 『基督信徒のなぐさめ』
- Representative Men of Japan(『代表的日本人』)1908年 - Japan and Japanese(1894年)の改訂版
- 『地人論』