八幡製鐵所
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八幡製鐵所(やわたせいてつしょ)は、 福岡県北九州市戸畑区及び八幡東区にある、日本初の近代製鉄所である。現在は新日本製鐵が運営する。かつての本事務所に相当する総合センターは戸畑地区の正門前、北九州市戸畑区飛幡町1-1に立地する。
読みは「やわた」であるが、現在では何故「やわた」と読むのかはっきりと分からない為、「やはたせいてつしょ」と読む人が殆どである(後述参照)。
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[編集] 沿革
[編集] 官営製鐵所時代
明治政府の殖産興業のスローガンの元、1895年の製鉄事業調査会設置、翌年1896年の製鉄所官制発布、そして1891年の本格的な建設開始をえて、1901年2月5日に東田第一高炉で火入れが行われた。当時は、単に製鐵所と呼んでいた。操業当初、技術上の問題から故障が多発し、1902年7月に操業を停止する事態も起きた。当初は農商務省管轄だったが、中央省庁再編によって1925年に商工省管轄となり、それは1934年の日本製鐵発足まで続いた。
八幡村(現北九州市八幡東区)が選ばれたのは、軍事防衛上や原材料入手の利便性などが挙げられている。
その後は、日露戦争や技術革新、重工業の発展に伴う需要増加に応えるため、第一期拡張工事(1906年~1910年)、第二期拡張工事(1911年~1915年)、そして第一次世界大戦で大幅に増えた鉄鋼需要に応え、第三期拡張工事(1917年)、1927年には年間銑鉄生産量年100万トン計画が立案され、海に築く製鉄所の先駆けとなった洞岡高炉群の建設決定(1938年完成)と、次々と拡張してゆき、国内の大半の需要を八幡製鐵所が賄うようになった。
[編集] 日本製鐵八幡製鐵所時代
第一次世界大戦後の不況により、製鉄企業の合理化が推し進められ、1934年1月29日に日本製鉄株式会社法により、官営製鐵所・九州製鋼株式会社・輪西製鐵株式会社・釜石鉱山株式会社・富士製鋼株式会社・三菱製鐵株式会社・東洋製鐵株式会社の官民合同で日本製鐵株式会社を設立した。この時官営製鐵所の名称が八幡製鐵所へと変更された。一連の出来事は製鉄大合同と呼ばれ、国内のシェアのほとんどを日本製鐵が占めることとなった。
日本製鉄になっても拡張は止まらず、1936年の珪素鋼板工場作業開始、1938年の日本最初の1000トン高炉である洞岡第三高炉火入れ、初の日鉄式コークス炉である洞岡第五コークス炉作業開始と、日本製鉄の中心となっていた。
第二次世界大戦中は、1941年の航空機用鋼増産や翌年の重要事業所認定など日本鉄鋼業界の中心であったため連合軍の爆撃目標となり執拗な爆撃を繰り返されたが製鉄所は溶鉱炉の火を守り通した。しかし終戦まぎわの1945年には燃料不足によって二つの高炉が稼動停止する事態となった。
戦後は原燃料の不足や戦後の混乱など日本の鉄鋼業界は壊滅状態であり、1946年に八幡製鐵所での集中生産が開始された。1949年にGHQの要請の元、アメリカの第一線技術者が八幡製鉄所に派遣された。日本からもアメリカへの技術調査団を派遣し、その後の鉄鋼業界の発展に一役買った。
[編集] 八幡製鉄八幡製鐵所時代
1950年に、「過度経済力集中排除法」により日本製鉄は八幡製鐵株式會社・富士製鐵株式會社・日鐵汽船株式會社・播磨耐火煉瓦株式會社に解体され、八幡製鐵所は八幡製鐵が所有することとなった。
1950年から1956年までの第一次合理化計画で、世界銀行の援助を受けながら、世界最大の50トン転炉建設など工場の近代化に努めた。また、海外企業との技術提携や合弁製鉄所建設など積極的な国際化を進めた。
1958年には戸畑製造所が発足、翌年東洋一の高炉が完成するなど、今後八幡地区から戸畑地区への移行が進んでいく。
[編集] 新日本製鐵八幡製鐵所時代
1970年に八幡製鉄と富士製鉄株式会社が合併し、新日本製鐵株式会社が発足する。合併理由は過当競争の是正や国際競争力を強化するためとされる。およそ20年前の日本製鉄解体から再び再合併する形となり、さらにあまりにも大規模な企業になることから大きな議論を巻き起こした。
合併後は、「八幡マスタープラン」と呼ばれる目標を作り、八幡地区から戸畑地区への鉄源集約や最新機器を取りそろえた工場へと変貌していった。
1990年に本事務所を八幡地区(枝光)から戸畑地区(飛幡町)へ新築移転するなど、近年さらに戸畑地区への集約が進んでいる。
戸畑地区への集約で、八幡地区では広大な土地があまり、スペースワールドや東田総合開発区画事業、旧事務所跡に北九州八幡ロイヤルホテルが開業するなど再開発を行っている。
1993年には総合無災害8,729万時間を達成した(鉄鋼業界世界新記録)。
[編集] 専用鉄道
八幡製鉄所は八幡地区と戸畑地区を結ぶために約6kmの専用鉄道(八幡製鐵鉱滓鉄道 くろがね線)を所有している。
[編集] 名称
八幡製鐵所は「やわた」と読み、所在地の八幡は「やはた」と読む。国が地名を読み違えたのが原因といわれる。他には、日本建国神話のなかでスサノオ命と戦った八俣遠呂知の八俣が八幡の起源であるとの庶民の噂を聞いたときから「やはた」→「やわた」と音をあらためたという意見もある。
[編集] 今現在の新日鉄八幡製鉄所第一溶鉱炉とその周辺
2001年の北九州博覧祭2001開催時に溶鉱炉を見学可能にするため整備され、一時話題になった。 博覧祭終了後の周辺は、市立いのちのたび博物館・大型ショッピングセンターなどが出来ている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク・出典
- 新日本製鐵ホームページ
- 新聞記事文庫 切抜帳一覧(神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ)
- 戦後経済発展における政策形成とエコノミストの役割
(間仁田研究室)