井原高忠
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井原 高忠(いはら たかただ 1930年6月6日 - )は日本のテレビディレクター、演出家。株式会社井原高忠事務所取締役。ザ・ピーナッツやとんねるずのユニット名の考案者としても知られる。
[編集] 略歴
東京市滝野川区王子(東京都北区王子)にて、三井男爵家の分家に生まれる(父が三井家から分家した際に井原を名乗り始めた)。戦前戦後を通じてアメリカ映画に熱中し、フレッド・アステアのタップ映画や、ローレル&ハーディの喜劇映画などから影響を受けた。旧制学習院高等科在学中、学制改革に遭遇。1949年、新制学習院の入試に失敗して1年間浪人生活を送っていたとき、 鳥尾敬孝や黒田美治と共にウェスタンバンド「チャックワゴン・ボーイズ」を結成し、ベース奏者として活躍。1年浪人後、慶應義塾大学文学部に補欠入学。学業の傍らベース奏者として駐留軍キャンプなどを廻る。1953年、開局まもない日本テレビの音楽部でアルバイトをする。1954年、慶應義塾大学文学部東洋史学科を卒業し、第1期社員として日本テレビに入社。1955年ごろ、肺に影が出たため、アシスタントとして秋元近史を採用。
1958年、『光子の窓』でディレクターとしてデビュー。放送作家として永六輔を起用。
1959年2月、まだ日本人の海外渡航が困難だった時期に、NBCのスペシャル番組「ジャパン・スペクタクル」のスタッフとして渡米。ロサンゼルスとニューヨークを廻り、NBCの「ペリー・コモ・ショー」やCBSの「エド・サリヴァン・ショー」といった著名な番組の制作現場を見学。アメリカのテレビ局からバラエティ番組制作のノウハウを持ち帰り、これを日本のテレビ番組で実践。日本におけるバラエティ番組の草分けとなった。
1960年、デモに熱中して台本の締切を守らなかった永六輔を日本テレビから追放(のち解除)。同年、芸術祭賞奨励賞受賞。その後『あなたと良重』『九ちゃん!』などを手がける。台本作家として中原弓彦や井上ひさしを起用。1963年、『夜をあなたに』でラジオ・テレビ記者会賞受賞。1965年に『11PM』を、1969年に『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』を手がけた。
1973年3月、制作局次長。1978年6月、第一制作局長に昇進。第1回「24時間テレビ」を手がけ、大成功を収める。しかし、50歳になったら会社を辞めると公言していたこともあり、1980年6月、胆石の手術を機に辞職。正力松太郎の死後、日本テレビの中で讀賣新聞のカラーが強くなり居心地が悪くなったことも、辞職の一因だった。同年7月1日、赤坂プリンスホテルにて「井原高忠 フェアウェル・パーティ」を開催。以後はホノルルの自宅マンションと東京を往復し、レビューの演出などフリーの立場で活躍。
1985年に日本を去り、ハワイに定住。1992年、静岡第一テレビのハワイ現地法人SDTの社長に就任。著書に、自伝『元祖テレビ屋大奮戦!』(1983年、文藝春秋社)がある。
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