上祐史浩
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上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年12月17日 - )は、宗教団体アーレフ(旧「オウム真理教」)代表。
信者としての名前(ホーリーネーム)は、「マイトレーヤ」。身長176㎝。
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[編集] 概要
福岡県三潴郡出身。早稲田大学高等学院卒業、早稲田大学大学院理工学研究科修士修了。早稲田大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。オウムでのステージは正大師である。
1995年からマスコミでオウム真理教の報道が過熱するようになると、教団の公報責任者として青山吉伸や村井秀夫らと共に、ほぼ連日朝から晩までテレビやラジオに出演し、オウムに批判的な意見に対して徹底的に反論していた。しかし後に「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だとウソをつき続けていた。自分はウソツキだった。」と告白した。
この時に見せたパフォーマンスから「ああいえば上祐」という流行語が生まれ、上祐ギャルと呼ばれる熱狂的な追っかけが登場するなど、一躍話題の人となった。
[編集] 略歴
- 1962年12月、福岡県に生まれる。
- 1969年、小学校2年の時に東京へ転校。
- 1978年、早稲田大学高等学院進学。
- 1981年、早稲田大学理工学部に入学。同大大学院に進学する。
- 1986年、オウム真理教に入信。
- 1987年、宇宙開発事業団に就職するが、4ヶ月の研修期間中に退職。
- 1990年、衆議院議員選挙に出馬。
- 1995年3月、地下鉄サリン事件に関与。 - この事件では訴追されていない。
- 1995年10月8日、逮捕される(国土法違反などで懲役3年の実刑)。
- 1999年12月29日、広島刑務所を出所。
- 2002年1月29日、「アーレフ」教団代表に就任。
- 2003年10月、古参信者の反発により、教団運営から退き、自室にこもる。
- 2006年4月30日、TBSテレビ「報道特集」が、新教団立ち上げ計画を明言していた事を報道。千葉県習志野市のマンションを「上祐派」の道場として活動しているが、管理者より立ち退きを迫られている。
- 2006年9月、習志野市のマンションからは立ち退き完了し、東京都世田谷区南烏山のマンションを拠点とした模様である。公式サイトも教団から分離して、麻原隠しを旨とする新教団として活動している。
[編集] 改革路線とその頓挫
2002年1月に上祐が教団代表になってからいわゆる「改革路線」での教団改革(社会融和ならびに表面上の麻原からの離脱、新しい教義的改変を特徴とする)が少しずつ進められていった。
- 2002年1月29日、アーレフの教団代表に就任。その後、虹の祝福・雷の祝福・竜神形の雲など自然現象を霊的示唆とする主張が続く。
- 2002年8月、信徒にシャクティーパット・イニシエーションを行なう。また、新たなステージの設置ならびに上祐による成就認定が行なわれる。
- 2002年10月1日、21世紀の霊的指導者としてリーダーシップをとるべきであるという「大黒柱の啓示」を受ける。
- 2002年11月1日、秋田県鹿角市環状列石、青森県十和田湖などを訪問し、新しい教義の模索を開始する。その後、諏訪湖などを含め「縄文クンダリニーヨーガ文明」の物語を流布する。また、十和田湖は出口王仁三郎が訪問して重視した場所であったということも注目された。
- 2002年12月1日、大阪支部が新道場へ移転。これは大国町にあったため、大国主命=大黒天ということで「大黒柱道場」とも呼ばれる。
このころ、自らをラーマクリシュナの一番弟子であるヴィヴェーカーナンダの転生者とし、麻原をラーマクリシュナ、他のオウム・アーレフの高弟たちをラーマクリシュナの高弟たちの転生者と「認定」する。これは、ヴィヴェーカーナンダが当初ラーマクリシュナの名前を出さずに自らの言葉で布教し、後にそれが受け入れられた時点でラーマクリシュナの権威を高めることになった、という歴史を教団にも当てはめる趣旨として強調された。すなわち、麻原抜きで世間に受け入れられる上祐教を広め、しかる後に「その教義を説いたのは麻原」という形で世間に認めさせる、という方向性である。また、この「高弟認定」では、上祐路線を積極的に進める者が優先して当てはめられ、論功行賞的な意味合いも持っていた。
- 2003年3月、沖縄本島ならびに出雲へ赴き、大国主命=大黒天と自らを重ね合わせる発言を行なう。また、出雲は出口王仁三郎が重視した場所でもあることに注目、松江の大本本部にも強い関心を抱く。
- 2003年3月末、草加市に新たに取得した工場跡地にて2回の集会を開く。一回は全サマナ、もう一回は全国の在家信徒対象で、ここで沖縄や出雲での報告を行なうとともに、麻原の教材などを道場から完全に排除する改革路線の徹底が確認され、承認を受けた。
- 2003年5月、日光東照宮へ参拝。麻原が三代将軍徳川家光であったとする信仰に基づき、その「聖地」へ巡礼する意味合いがある。また、日光の家康の墓と烏山の上祐居室がまったく同経度(すなわち完全に南北方向)にあることが判明する。
ここまでは教団全体の動きが上祐改革路線に沿ったものであった。
しかし、その後、教義の改変が信仰の根幹に関わることから、この改革路線への反発も表面化し、6~7月には上祐の改革路線が信仰上深い問題があること(特に上祐を「グル」とする傾向があると批判された)、同時に発生したチッタカ正悟師の破戒問題により、反改革の動きが大きくなる。 結局、夏には改革路線はストップし、さらに、成就者(師以上の宗教的ステージの者)による「シッダサマージャ」での決定によって上祐代表は長期修行に入り、教団運営に関与しないこととなった。また、チッタカ正悟師は正悟師からサマナ見習いへ降格。 その後、教団運営は反改革路線で、特に指導者なく地道に修行・財施が進められることとなる。この時期、荒木広報部長らが反上祐的な内容の勉強会を行なっている。
それから約1年後の2004年9月にケロヨン事件が発生し、焦りを感じた上祐代表ならびにその周辺の支持者が教団運営への復帰を図る。 2004年11月には、ヴァジラチッタ・アティ・アッサージ正悟師(二宮耕一)とヴァジラチッタ・ヴァンギーサ正悟師(杉浦茂)が協力してマイトレーヤ正大師(上祐)の代表復帰工作を行なうが、直後、アッサージ正悟師が突然反上祐に転じ、マイトレーヤ復帰の動きは頓挫した。
その後、上祐は公然と活動を開始し、自らを「M派」、反改革路線を麻原三女の意向を受けたものと主張して「A派」と命名するが(「A派は麻原の三女を担ぎ出している」というのはM派による情報宣伝である)、反上祐の立場の者は単に「教団」(教団本体)と考え、あくまでもM派がアーレフの教義を曲げるものであると考えていた。後に反上祐派は「正統派」などを名乗るようになる。
2005年はじめの教団では、反上祐の立場を鮮明にしていたのは、正悟師の中では村岡達子、二宮耕一の二人であったが、この二人は厳しい発言を行なうことが多く、上祐派・反上祐派双方に反発を感じるサマナも現われた。 そこで、二派の対立に悩む杉浦実が中間派を名乗るようになるが、教団の実際の運営(経理)などについては主流派と完全に同調しており、実際には「上祐派」と「非上祐派」の二つに大きく分けて考えてかまわない。 現実には教団内では正悟師一人ひとりの考え方がまるで異なっており、ほぼ一人一派というのが実情である。したがって三派に分かれているという考え方は現実に合致していない。
2005年はじめ、上祐は上祐派のサマナ10名程度を率いて長野県戸隠神社の駐車場にキャンプを行なった。そして、戸隠神社の鳥居の前で雪の中、立位礼拝(五体投地)を行ない、そのまま奥の院まで参拝するという行動をとった。この事実が明らかになると、教団内で「神社(すなわち教団の礼拝対象以外の宗教的存在)への礼拝」に対する批判が高まる。これに対して上祐派は、当初、鳥居前などでの礼拝をしていないと主張し、後に主張を覆して「戸隠神社はもともと修験道の霊場であり、そこに祭られていたのは観音菩薩である。観音菩薩の化身がダライ・ラマであるとされており、ダライ・ラマ5世が麻原であるから、これは教義に反しない」と主張した(ちなみに、ダライ・ラマ5世が麻原というのは教団の教義に反し、上祐の独自の主張である)。 また、この件があったために、代表派は「戸隠派」とも呼ばれるようになった。
その後、上祐は「麻原からの霊的エネルギーが受けられない」代替方法として「聖地巡礼によって神聖なエネルギーを受ける」ことを主張し始めた。そのため、十和田湖、戸隠などに加えて、伝弥勒菩薩半跏思惟像のある京都太秦広隆寺などを信徒とともに巡る「聖地巡礼ツアー」を開催している。これは麻原の「インド巡礼ツアー」をまねたものと報道されたが、形はそっくりでも、実際の意義は違っていた。
[編集] 代表派と主流派
- 代表派 (M派・上祐派・J派)
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- 教団代表である上祐を中心とした派閥。麻原彰晃(松本智津夫)外し(教団内の信者には「隠し」であると説明する)、旧オウム色の脱却を図って活路を見出そうとする。事件が再発しないことを強く主張する。
- 主流派 (反代表派・A派)
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- 教団の大多数を占める。麻原への「帰依」を打ち出し、あくまでも旧オウムの教義を守ろうとするため、代表派からは「原理主義」と批判されるものの、事件の再発を防ぐ意図については、代表派と同じである。
上祐派分離に対する各正悟師の立場は以下のとおりである。
- 村岡達子
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- もともと強硬な反上祐派であったが、四女派に転じた(教義上の違いがあっても上祐派を受け入れ、教団の分裂を避ける派)。
- 二宮耕一
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- 一度は上祐の復帰のために動いたが、直後に強硬な反上祐に転ずる。しかし、もともと「アッサージ王国」とも呼ばれる独自派で、関西を拠点とし、関西圏を中心とした信徒教化に重きを置くため、反上祐運動を推進する立場にはならなかった。
- 杉浦茂
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- 法律部門も担当するため、教団運営の個々の方針に関しては上祐の社会融和路線を是としているが、翻訳担当として教義を管轄する立場からは、上祐の唱える新教義に対して否定している。個々それぞれに思うように行動すればいい、という主張であり、特に一派をなしていない。
- 杉浦実
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- 教義的に上祐の新路線は受け入れられないが、教団分裂という事態そのものに対して憂慮。一時期、自主的に修行に入り、教団の混乱に関わらないようにした。復帰後は中間派として、教団内の対立状態を緩和しようとする。教団の経理担当として、上祐派としての分離的な活動には資金を提供せず、あくまでも教団本体は正統派であるという立場を貫いており、この点から中間派は立場的には明らかに非上祐であるといえる。
- 野田成人
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- 桃源クリーム事件のため拘留、執行猶予付き判決となり、この間の対立には直接参加していない。主流派であるものの、当初は上祐的な活動方針を容認していたこともあった。反上祐的な立場をそれほど明確にはしていない。野心の強い人物であると教団内で認識されることが多い。
2006年5月には、上祐が「人を神としない、新教団を作る」ことをセミナーで宣言した。2006年7月には財政面もアーレフから分離、2007年前半には実際に新教団設立を宣言するなど、教団分裂は確定的なものとなっている。
2006年当初には信者約1650人のうち、代表派は2割、主流派(中間派含む教団残留者)は約8割程度であったが、2006年夏には上祐派の再分裂が起こった。上祐派内部で「麻原を完全に外して上祐がグルになる」ことを受け入れられない主要構成員が、ブレーンも含めて多数、上祐派を離脱した。 2006年7月の財政分離にあたって、烏山では2派の居住分離が行なわれた。道を挟んで西側の分譲マンション1~2階と東側アパートがこれまで教団信者の居住・修行スペースとして使われていたが、分譲マンション側が代表派、東側アパートが非代表派となったのである。このとき、元々上祐派の指導的立場にあった信者が東側アパートに居住あるいは教団脱会を行ない、上祐派の分裂が目に見える形で明らかとなった。
2006年9月時点で、派閥問題が生じる以前(2003年)から比べると、出家信者の数は、両派あわせて約2/3(400名弱)になっており、組織そのものの弱体化が見られる。教団が二つに分離したことで、この教団も例外なく「弱体化」しているが、警察・公安調査庁・マスコミのいずれも警戒が必要だと主張し続けている。
また2006年秋には、テレビ局・新聞社などの報道機関が上祐派のための記者会見会場を提供していたことが明るみに出、マスコミが今なお上祐派の宣伝に利用されている疑惑が浮上している。
[編集] 外部リンク
- 宗教団体アーレフ 公式サイト 反上祐派(主流派)
- 宗教団体アーレフ 代表広報担当 公式ブログ
- 宗教団体アーレフ 代表広報担当 公式ブログ2 (仮設サイト)
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