上杉憲顕
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上杉 憲顕(うえすぎ のりあき、1306年(徳治元年) - 1368年10月31日(正平23年/応安元年9月19日))は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。上杉憲房の子で、足利尊氏・足利直義兄弟の従兄弟。兄弟に上杉憲藤(犬懸上杉家)ほか。子に上杉能憲ほか。
早くから尊氏に仕えた。1335年に尊氏が後醍醐天皇に叛くと、直義の部隊に属して戦功を挙げた。尊氏が九州に落ちると石見国にてその再挙を助けた。1336年、父の憲房が京都で戦死したため、家督を継いで当主となった。その後も尊氏のもとで戦功を挙げたため、上野国の守護に任じられた。これが山内上杉氏の興りである。
1340年、尊氏の命で鎌倉府の執事に任じられ、高師冬と共に関東各地を転戦した。鎌倉公方として尊氏の子・足利基氏が下向してくると、これの補佐役に当たり、その功績により越後国の守護に任じられた。1350年、観応の擾乱が起こると師冬との対抗上から、養子の上杉能憲と共に直義側に与して尊氏と敵対した。そして1351年には師冬を自害に追い込み、さらに直義を鎌倉に招こうとしたため、尊氏の怒りを買って上野・越後における守護職を剥奪された。翌1352年、直義が死去して観応の擾乱が終結すると、尊氏の追討を受けて信濃国に追放された。このとき、剃髪して道昌と号している。
尊氏の死後、基氏の招聘を受けて鎌倉に迎えられ、1362年には上野・越後の守護に任じられたうえ、法体であるが形式的に基氏を補佐する関東管領にも就任していると考えられている。1368年、足利義満が将軍に就任すると、それを祝うために上洛した。しかし同年、新田義宗や脇屋義治などの南朝勢力が関東にて勢力を盛り返したため、これらの鎮圧に当たったが、老齢のために9月19日、足利の陣中にて死去した。法号は国清寺桂山道昌。墓所は伊豆国奈古屋の国清寺。