ロブ・カーマン
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基本情報 | |
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本名 | ロブ・カーマン |
あだ名 | ザ・ダッチマン |
階級 | ライトヘビー級 |
国籍 | オランダ |
誕生日 | 1960年6月5日 |
出身地 | オランダ、アムステルダム |
命日 | |
死地 | |
スタイル | キックボクシング |
プロキックボクシング戦績 | |
総試合数 | |
勝ち | |
KO勝ち | |
敗け | |
引き分け | |
無効試合 |
ロブ・カーマン(Rob Kaman、1960年6月5日 -)はオランダ人元プロキックボクサー。オランダ、アムステルダム出身。身長187cm、体重89kg。
人格的に素晴らしい人間だと知られており、自分の車を貸した友人がその車で強盗を起こした際、その友人の変わりに自分が刑務所に入ったという逸話がある。彼によればそっちの方が反省させられると考えたからだと言う。
[編集] 来歴
16歳の時にプンチャック・シラットというインドネシアの格闘技を始める。1978年5月から名門目白ジムでムエタイの練習を始める。4ヵ月後に初試合を行い、フランス国内王者のカリロンと対戦して判定負けする。その後、猛練習を積み勝ち星を重ねてA級に昇格すると、ベニー・ユキーデの従兄弟のブリンキー・ロドリゲスと対戦しローキックで2RKO勝ちし、国際的に名前が知られるようになる。
1983年9月23日にWKA世界王座に挑戦。ジョン・モンカイヨと対戦しローキックで3RKO勝ちしヨーロッパ系のキックボクサーとして初のWKAの世界王者になる。
翌年、1月12日にパーヤップ・プレンチャイ(タイ)とムエタイルールで対戦し、勝利を収める。4月にアメリカ・フロリダ州でモンカイヨと再戦し、これを2RKO(パンチ)で退ける。同年12月28日には香港でサーマート・プラサンミット(タイ)に、ジャン・マルク・トーナスにWKAフルコンタクトヨーロッパ王座決定戦で勝利する。
1987年11月15日に全日本キックボクシング連盟興行で初来日。1Rでラックチャート・ソーパサドポンをKOし、日本でも知られる存在になった。これを機に日本での試合のオファーが増え、カークウッド・ウォーカー、ドン・中矢・ニールセンといった強豪キックボクサーと対戦しその試合全てにおいて勝利を飾った。
1989年4月9日オランダでヤン・ウェッセルと対戦したカーマンは激務の為の調整不足か負けてしまった。しかし、その年の終わりにはウェッセルと再戦し2RKOで下しリベンジに成功した。
1990年に映画「ブラッドフィスト」に出演し、ドン・ウィルソンとの共演も果たした。。日本のK-1が主催した、K-2トーナメントに参加。一回戦でチャンプア・ゲッソンリットと対戦して判定負けする。カーマンはこの年になんと今回を含めて他の試合で3度もチャンプアと対戦した。同年、長男ギャビーが誕生。夏にホープピーター・スミット(オランダ/WKAヨーロッパ王者)と対戦するが、敗北しWKAの世界を失い引退かと思われたが、西良典との試合で1RKO勝ちで自身の健在ぶりアピールした。またオランダでアーネスト・ホーストにも5RKO勝ちした。
1991年6月29日フランスでピーター・スミットを破ってルーク・ヴァーヒーが戴冠したWKA世界王座に挑み、KO勝ちして再び王座に返り咲いた。この年はフランスを主戦場にしてリック・ルーファス、ジャスティン・ワードといった選手と闘った。
1992年6月20日当時フルコンタクトルールで史上最強と言われたジャン・アイヴィス・セリアーの持つISKAフルコンタクト世界王座に挑戦し、TKOで新王者になる。
1993年11月26日オランダ王者のリック・ヴァン・ダムを2RKOで仕留めると、2本の映画に出演。その際、ジャン・クロード・ヴァンダムと共演。フランスのパリで行われたK-2トーナメントでは、決勝戦でジェロム・ターカン(フランス)を4R終了時に劇的なハイキックで下し逆転優勝した。
1999年10月24日引退試合を行い、当時アマチュアキックの世界選手権で優勝したアレクセイ・イグナショフ(ベラルーシ)と対戦。判定勝ちするも、試合後真の勝者はイグナショフだと語り、受け取ったトロフィーを彼に渡した。
[編集] 獲得タイトル
- WKA世界ミドル級王座(1983年9月23日 - 1990年8月)
- WKA世界ジュニアライトヘビー級王座
- WKA世界スーパーライトヘビー級王座
- IMTA世界ライトヘビー級王座
- ISKAフリースタイル世界ライトヘビー級王座
[編集] 出演映画作品
- ブラッドフィスト(1990年)