ヨハン・ミヒャエル・ハイドン
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ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 ニーダーエースターライヒ・ローラウ Rohrau - 1806年8月10日)は、オーストリアのローラウに生れザルツブルクで没したクラシック音楽の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。生誕地ローラウはウィーンの西約40Km。
- 1755年までウィーン聖シュテファン教会の聖歌隊で歌うかたわらオルガン、ピアノ、ヴァイオリンを学ぶ。
- 1757年(20歳) ハンガリーのグロースヴァルダイン司教の楽長となる。
- 1763年(26歳) ザルツブルクの大司教ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach 1753年 - 1771年)の宮廷楽団のコンサートマスター。
- 1771年(34歳) ジークムント大司教の死に際して《レクィエム ハ短調》を作曲。
- 1777年(40歳) 聖三位一体教会のオルガニストとなる。
- 1781年(44歳) モーツァルトの後任として宮廷及び大聖堂オルガニストとなる。
- 1800年(63歳) ザルツブルクはフランス軍に占領され、財産や給料を奪われた。兄ヨーゼフが送金して助けている。また、マリア・テレジアがミサ曲、後にレクィエムを委嘱した。アイゼンシュタットに兄ヨーゼフを訪ねた時、宮廷での第2楽長の職を提案されたが、ザルツブルクに留まる事を選んだ。
- 1804年(67歳) 推薦されスウェーデン王立音楽アカデミーの会員になる。
- 1806年8月10日(69歳) ザルツブルクで死去。
[編集] 弟子達
ウェーバー(1786-1826)は彼の最も有名な弟子である。また、弟子のアントニオ・ディアベリ(Antonio Diabelli, 1781-1858)はミヒャエル・ハイドンの為の葬送行進曲を作曲した。
[編集] 作品
- トランペット協奏曲 第1番 ニ長調
- トランペット協奏曲 第2番 ハ長調
- ディヴェルティメント ト長調
- 24曲のミサ、30曲の交響曲、50曲のオルガンのためのプレリュード、弦楽4重奏曲、弦楽5重奏曲、オラトリオなど多数の曲を残している。
- ト長調の交響曲はモーツァルトが第1楽章に序奏を追加して自分の演奏会で用いたため、しばらくモーツァルト作の交響曲37番K.444として知られた。
[編集] 関連項目、外部リンク、参考資料
ミヒャエル・ハイドン交響曲作品カタログ http://www.h6.dion.ne.jp/~haydn/MichaelHaydnSinfoniascatalogue.htm
カテゴリ: オーストリアの作曲家 | 古典派の作曲家 | 1737年生 | 1806年没