モーリス・スミス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[[画像:|200px]] |
|
基本情報 | |
---|---|
本名 | モーリス・スミス |
あだ名 | Mo、 黒い爆撃機 |
階級 | ヘビー級 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
誕生日 | 1961年12月13日 |
出身地 | アメリカ、 ワシントン、シアトル |
命日 | |
死地 | |
スタイル | キックボクシング |
プロキックボクシング戦績 | |
総試合数 | 75 |
勝ち | 62 |
KO勝ち | 45 |
敗け | 9 |
引き分け | 4 |
無効試合 |
モーリス・スミス(Maurice Smith、1961年12月13日 - )はアメリカ人元キックボクサー。身長186cm、体重112.0kg。ピーター・アーツが登場するまで、8年間、キックボクシング界で無敗を誇り、ヘビー級の頂点に立ち続けた。キックボクシング、総合格闘技両方と、二束草鞋で活躍した数少ない格闘家である。ボブ・サップのトレーナーも務めたことがあり、現在ではモーリス・スミス キックボクシングセンターというジムを経営している。
日本では1989年11月29日、UWFの東京ドーム大会「U Cosmos」に登場し、鈴木みのるを完膚なきまでに粉砕し、注目を浴びる。その後、パンクラス、リングス、K1にも登場した。全日本キックボクシング連盟のリングにも上がったこともある。
高田延彦が「対戦したい」と発言した事を受けて、全日本キックボクシング連盟が高田に事前に何の交渉もしないままスミスとのカードを発表。試合当日、高田が来なかった事で、リング上でテンカウントを鳴らし、試合放棄という形で勝利した事がある(ただし、経緯を考えても、これを試合が成立したとは言い難いが)。
93年にパンクラス参戦後、総合格闘技をメインに活動することになるがバス・ルッテンやケン・シャムロックなどトップどころとの対戦が主だったせいか、パンクラスでの戦積は芳しくなかった。96年1月からはリングス参戦。高阪剛に敗退するが、彼の技術に惚れ込んだスミスはアメリカに招いて指導を受けるようになる。その成果が発揮されたのは同年10月、アメリカで開催されたエクストリーム・ファイティング・チャンピオンシップ3である。スミスはマーカス・コナン・シウヴェイラの持つヘビー級王座に挑戦、3ラウンドにKO勝ちで第2代王者へと就き、かつてアメリカの格闘技雑誌上にて挑発された経験があるホイス・グレイシーへの挑戦を表明する。(後にK-1で実現との噂が流れたが、結局実現はしなかった)。 翌97年3月には現プロレスラーの村上一成(当時慧舟会所属)を相手に初防衛に成功するものの、同大会を最後にエクストリーム・ファイティング・チャンピオンシップが消滅。同年7月にはUFCに参戦、マーク・コールマンのヘビー級王座に挑戦、判定勝ちを収めて王座を獲得する。10月にはタンク・アボットを下し初防衛に成功するも、12月のUFC-Jではランディ・クートゥアに判定負けで王座転落。しかし、世界レベルのレスラーであるクートゥアをグラウンドコントロールするなど、恐るべき適応能力を見せつけた。
98年にはK-1に復帰。戦績は芳しくなかったものの、名前に傷がつくことを恐れるよりも試合を選んだ姿勢は高く評価される。以後、K-1には2003年まで断続的に参戦。2001年には北米地区予選トーナメントで優勝。
また、同時進行して継続して総合格闘技も続行。UFC、リングス、WEFで活躍。 レナート・ソブラル、ブランコ・シカティック、ヘンゾ・グレイシー、ペドロ・ヒーゾなどのビッグネームと対戦した。
2006年10月の時点におけるラストファイトは2003年6月のK-1アメリカ予選トーナメント準決勝戦でのリック・ルーファス戦である。
[編集] 戦績
- キックボクシング:75戦 62勝 45KO 9敗 4分
- 総合格闘技:20戦 11勝 6KO 2一本勝 9敗 0分
[編集] 獲得タイトル
- キックボクシング
- PKAキックボクシングヘビー級王座
- WKA世界キックボクシングヘビー級王座(1983)
- WKA世界ムエタイヘビー級王座(1983)
- ISKA世界キックボクシングヘビー級王座(1996)
- K-1 WORLD GP 2001 北中南米地区予選トーナメント優勝(2001)
- 総合格闘技
- Battlecades Extreme Fighting 2 優勝
- Battlecades Extreme Fighting 3 優勝
- 第2代UFCヘビー級王座(1997年7月27日 - 1997年12月21日)