メジロデュレン
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1983年5月1日 |
死没 | (存命) |
父 | フィディオン |
母 | メジロオーロラ |
生産 | 吉田堅 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | メジロ商事(株) |
調教師 | 池江泰郎(栗東) |
競走成績 | 21戦6勝 |
獲得賞金 | 2億5284万6600円 |
メジロデュレンは日本の競走馬。主な勝鞍は、菊花賞、有馬記念。弟には、GI4勝のメジロマックイーンがいる。主戦騎手は村本善之。
[編集] 戦績
1985年8月、函館競馬場でデビュー。新馬戦を3着、2着と惜敗するなど仕上がりの早さを見せたが、膝の骨折のため長期休養を余儀なくされる。
復帰の時期は翌年の5月にまでずれ込むが、初戦をいきなりの勝利で飾る。 その後、自己条件で2戦足踏みをするも、なでしこ賞(400万下)に勝つと夏は北海道に向かう。 格上挑戦の巴賞で古馬に伍して3着に食い込むと、続く樽前山特別(900万下)、関西に戻って嵐山特別(1400万下)と連勝して菊花賞に挑んだ。 この年の菊花賞は明確な主役不在で「乱菊」と呼ばれたが、メジロデュレンは嵐山特別で菊花賞と同距離を克服している割に6番人気と低評価であった。 レースは、逃げるレジェンドテイオーが作り出すスローペースの中、好位をキープし、直線ではダイナガリバーとの叩き合いから2分の1馬身抜け出し、戴冠した。 この勝利により、ホリスキーの菊花賞以来続いた関東馬による牡馬クラシック制覇に歯止めをかけ、後の「西高東低」時代の嚆矢となった。
その後、有馬記念は回避。年が明けての日経新春杯から始動し、3着に入る。春は、天皇賞を最大の目標として調整が進められたが、骨折のため断念。 秋になって復帰したものの、カシオペアステークス5着、鳴尾記念では初めて掲示板を外す10着と大敗する。この敗戦にオーナーサイドは、翌年の天皇賞に向けての休養を主張するが、池江調教師の意向で有馬記念出走に踏み切る。 多くの競馬ファンも有馬記念を勝てる状態にないと判断し、当日は10番人気と前年の菊花賞馬としては不人気だった。 レースは、メリーナイスの落馬、サクラスターオーの競争中止と波乱の展開。その中で、メジロデュレンは中団を追走して脚をため、直線で外から一気に抜け出した。 2着には同枠のユーワジェームスが入ったため、枠連は16300円と、当時のGI最高配当を記録するという馬券的にも大波乱に終わった。
この有馬記念の激走による消耗のためか、翌年は7戦して未勝利に終わる。期待された天皇賞(春)も馬運車で外傷を負うという不運にも見舞われ、 勝ったタマモクロスから大きく離された3着に入るまでだった。有馬記念では、不利を受けながら5着となり、健在ぶりを見せたが、 この時のゲート入りが悪く、3ヶ月の出走停止という重い処分が下される。 陣営は次の天皇賞(春)でのリベンジを期していたが、この処分により天皇賞はぶっつけで臨むことを余儀なくされる。 レースを使うことで良くなるタイプのメジロデュレンにとってこれは致命的であり、引退を決断することとなった。
[編集] 引退後
引退後は、1990年から種牡馬入りしたが、典型的なステイヤー血統が災いしてか、産駒はまったくといっていいほど走らなかった。
1994年を最後に種牡馬からも引退し、つま恋乗馬クラブで乗馬となったが、現在は、長野県のスエトシ牧場で余生を送っている。
[編集] 血統表
メジロデュレンの血統 (テディ系/アウトブリード) | |||
父
*フィディオン Fidion 1972 鹿毛 |
Djakao 1966 |
Tanerko | Tantieme |
La Divine | |||
Diagonale | Ribot | ||
Barley Corn | |||
Thessalie 1963 |
Sicambre | Prince Bio | |
Sif | |||
La Tournelle | Tourment | ||
Vatellino | |||
母
メジロオーロラ 1978 栗毛 |
*リマンド Remand 1965 栗毛 |
Alcide | Alycidon |
Chenille | |||
Admonish | Palestine | ||
Warning | |||
メジロアイリス 1964 黒鹿毛 |
*Hindstan | Bois Roussel | |
Sonibai | |||
アサマユリ | ボストニアン | ||
トモエ F-No.7C |
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