ミカエル3世
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ミカエル3世”メテュソス”(Michael III. ギリシャ語表記:Μιχαήλ Γ'、840年1月19日あるいは1月20日-867年9月23/4日)は、東ローマ帝国アモリア王朝の第3代(最後)の皇帝(在位842年-867年)。第2代皇帝・テオフィロスの子。「メテュソス」は「飲んだくれ」を意味するあだ名。
842年に父・テオフィロスが没したとき、わずか2歳という幼年であったため、母のテオドラと宦官のテオクティストスが政務を取り仕切った。母・テオドラはイコン破壊運動を終わらせ、843年にイコン崇拝の復活を宣言した。続けてテオドラはクレタ島の回復を目的とした戦いを開始したが、成果は上がらなかった。
ところで成人したミカエル3世は、母に実権を握られて傀儡であることを苦々しく思い始めた。そこで、かつてテオクティストスと対立して追放されていたバルダス(テオドラの弟。中世ギリシャ語読みではヴァルダス)らと協力して855年にクーデターを起こし、テオドラを修道院に追放して親政を開始した。
彼は実権を獲得するにあたって協力したバルダスを重用し、864年には「カイサル(副皇帝)」に任じた。また863年にアッバース朝領内の地方指揮官(エミール)が小アジアに侵入してきた時にはバルダスの兄弟・ペトロナスを将軍として派遣し、エミールの軍の撃破に成功した。この時ミカエル3世自身も戦いに参加している。この戦い以降、ビザンツ帝国は小アジア東部でイスラーム勢力に対して攻勢に転じるようになっていく。一方でシチリア島では、アグラブ朝による攻勢を食い止めることができなかった。また小アジア半島における異端のパウロ派の勢力拡大にも、効果的な対策を行うことができなかった。なお860年には黒海の北岸からルーシ(のちのキエフ・ルーシ)がコンスタンティノープルに来襲している。
彼の時代にはコンスタンティノープルにおける建築活動が盛んになった。聖ソフィア大聖堂ドームに現存する聖母子のモザイクはミカエル3世時代に作成された可能性が高い。867年には宮殿内にファロス教会も建設される。これらはいわゆるマケドニア朝ルネサンスにつながる文化的潮流となった。一方モラヴィア・ブルガリアなどスラヴのキリスト教化を推進したため、教会の主導権を争っていたカトリック教会との関係が険悪になり、さらには「フィリオクェ問題」や在俗の官僚であったフォティオスの総主教任命をめぐってローマ教会と対立。867年にはミカエル主宰の教会会議がローマ教会の「フィリオクエ」に関する教義を異端として退ける「フォティオスの分離」が起こった。
さて、ミカエル3世は晩年、アルメニア系の側近バシレイオス(のちのマケドニア王朝の初代皇帝バシレイオス1世)を重用するようになった。そしてバシレイオスは、ミカエル3世のもとでナンバー2の実力者であったバルダスを866年4月に暗殺し、ミカエル3世もこれを黙認した。こうしてミカエル3世の有力重臣となったバシレイオスは、その一ヵ月後には共同皇帝として即位。だが翌年、ミカエル3世はバシレイオスと対立したため、バシレイオスに暗殺されて帝位を奪われてしまい、ここにアモリア王朝は断絶したのである。ただし865年にバシレイオスと結婚したエウドキア・インゲリナは、ミカエル3世が暗殺されるまでミカエルの愛人でもあったため、866年に生まれたのちのレオーン6世はミカエル3世の息子である可能性を否定できない。
後のマケドニア王朝時代になると、バシレイオス1世の帝位簒奪を正当化するために、実際は史書が伝えるほど暗愚ではなかったが、ミカエル3世は暗愚な皇帝であったという逸話が作られた。例えば、小アジア半島に整備されていた烽火による通信網を「競馬場で戦車競争を行うのに集中できない」という理由で使えなくしてしまった、という話などが伝えられており、「飲んだくれ」という不名誉なあだ名もマケドニア王朝時代以降につけられたものである。
東ローマ帝国アモリア王朝 | ||
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先代 |
次代(マケドニア王朝) バシレイオス1世 |