マルコ・ファン・バステン
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マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten, 1964年10月31日 - )は、オランダ・ユトレヒト出身のサッカー選手。現同国代表監督。
度重なる怪我のため選手生命は長くなかったが、スピード・パワー・テクニック・高さ・アイディア・メンタル・瞬発力・決定力とFWに必要な能力を全てを兼ね備えた万能ストライカーで、1988年の欧州選手権、対ソ連戦では伝説となったボレーシュートを決めた。これは後に20世紀最高のゴールと賞賛されている。ACミラン在籍時にヨーロッパ/サウスアメリカ カップやUEFAチャンピオンズカップなどのタイトルを獲得した。
1987年から在籍したACミランではルート・フリット、フランク・ライカールトらと共にオランダトリオと呼ばれ、グランデミラン(偉大なるミラン)と称された当時世界最強チームの偉大なストライカーとして君臨した。スパイク契約はミラン移籍後からディアドラであり、オランダ代表のチームカラーであるオレンジ色のロゴのスパイクを履いていた。ロベルト・バッジョと並び、同社の看板選手であった。
史上最高のFWの一人として多くの人が名を挙げるにもかかわらず、バロンドール最多受賞やクラブチームでのタイトルの栄光に比べると、W杯の活躍が乏しいこと(1点も決めてない)が評価を下げていることも事実である。
彼のその天才的なプレースタイルは他の追随を許さず、イタリアのサッカーファンに『神は8日目にマルコを創造した』とまで言わしめた。また、彼が引退を表明した直後のシーズンにACミランのファンに「マルコのいないサンシーロは羽の無い風車だ」という横断幕が掲げられたほどである。
愛称は「ユトレヒトの白鳥」。
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[編集] プレイスタイル
長身ながら繊細なボールタッチが魅力的な万能センターフォワード。自らサイドに流れてのプレーは言うに及ばず、下がりながらボールを受け、ラストパスを出す事もたやすくこなした。オフサイドラインをかいくぐりゴール前に飛び出すプレーも得意であったし、ドリブルでディフェンダーを抜くこともでき、当然ながら長身を生かしたヘディングも素晴らしく、さらに、アクロバットなシュートも決めいていた。豪快さは欠けるが、頭、両足から繰り出されるシュートは針の穴を通すように正確で、かつ、ミドルシュート、ループシュート、ドリブルでキーパーをかわしてシュート等、得点パターンをいくつも持っていた。自らのゴールで勝利を呼ぶ事も多かったが、マークを自分に引き寄せ周りに得点させることも多かった。あらゆるプレーの質が高く、一発で試合をひっくり返すことができた。
また、彼は執拗なきついあたりやバックチャージなどを度々受けていたが見事なボディーバランスで倒れようとはしなかったため(有名なのは1990年のトヨタカップのループシュートまでのプレーの流れ)、そのことが怪我をまねく原因と見る人も多かった。
PKの蹴り方が独特であり、一度ジャンプしてから長めの助走をつけて蹴る(これは練習中の癖が残ったものだという)。しかしGKに間を読まれることもあり、1992年の欧州選手権ではデンマークの名手・ピーター・シュマイケルに読み切られ止められてしまう。オランダは彼だけが失敗し、準決勝で敗退することとなってしまった。
プロデビューは17歳のときで、先発のクライフが自ら指名して交替出場。その試合でハットトリックを達成している。
彼を史上最高のFWと評価する声は多い。 彼に憧れる選手は多く、有名な所ではティエリ・アンリ(アーセナル・フランス代表)、アンドレイ・シェフチェンコ(チェルシーFC・ウクライナ代表)、日本では高原直泰(アイントラハト・フランクフルト・日本代表)など枚挙に暇が無い。
[編集] 監督業
1995年に引退後はしばらくサッカーから離れていたが、2003年に古巣アヤックスのユースチームのアシスタントコーチに就任すると、そのわずか1年後にはディック・アドフォカートの後任としてオランダ代表監督に就任した。
指導者としては皆無に等しい実績から、疑問を差し挟む声も少なくなかったものの、フタをあけてみればワールドカップドイツ大会予選でチェコ、ルーマニアといった強豪と同居し「死のグループ」と呼ばれたグループ1を10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過を果たし、日韓ワールドカップ予選敗退の悪夢を払拭した。
監督としてのファン・バステンは4-3-3システムを重用しているように、リヌス・ミケルス以来のトータルフットボールの伝統を受け継いでいるが、最大の特徴は新しい選手の召集に非常に積極的な点である。彼はこれまでほとんど注目されていなかったオランダ3強(アヤックス・フェイエノールト・PSVアイントホーフェン)以外のチームからも多くの選手を召集している。特に3強を脅かすクラブに成長したAZアルクマール出身の選手は今や最大勢力となり、そこからデニー・ランツァート(現ウィガン・アスレティック)、ヤン・クロンカンプ(現PSVアイントホーフェン)、ヨリス・マタイセン(現ハンブルガーSV)、バリー・オプダムなどの有能な選手がブレイクするきっかけともなった。
またライアン・バベル、ヘドヴィヘス・マドゥロ といったリーグでの実績がほとんど無かった選手でも戦力になると思えば躊躇なく召集する一方で、実績はあるが調子が悪かったり代表でのプレーの質が悪い選手(パトリック・クライファート、クラレンス・セードルフなど)は容赦なく戦力外としている。彼の下では実績は意味を成さない。
アドフォカート時代の硬直的な選手起用で溜まっていた代表の閉塞感を打破し、チーム内の風通しをよくしたことは大きな意義がある。もっとも、あまりにもメンバー構成が毎試合異なるので、「いくら何でも試しすぎ」との批判もある。
2006年のワールドカップは死のグループと呼ばれたグループCを2勝1分けの成績で突破したが、決勝トーナメント1回戦でポルトガルに敗れベスト16に終わった。しかしオランダサッカー協会はファン・バステン監督を留任させることを決定し、契約を2010年まで延長した。
[編集] 印象に残るプレー
1988年、欧州選手権決勝のソ連戦に見せたシュートは伝説とも言われるワンプレーだった。左サイドからのクロスに走り込み、ダイレクトボレーで自分とは対角のゴールに豪快にたたき込む。しかも、ドライブがかかっていた(ファン・バステンによれば意図してかけたわけではなかったらしいが)ため、レフ・ヤシンの後継者と呼ばれた当代屈指の名GKリナト・ダサエフですら防ぐことは不可能であった。
難易度の極めて高いプレーを、後で自分でも驚くほどいとも簡単にやってのける、それが全盛期のファン・バステンだった。
[編集] 語録
「9本のスーパーゴールと10本の平凡なゴール、どちらかを選べというなら僕は迷わず10本の方を選ぶよ」との発言からわかるように「どんなゴールだったか?」よりも「ゴールしたか否か?」にこだわっていた。このとこを表しているのがゴール後だといえよう。彼はゴールを決めても、チームメイトに祝福された瞬間だけ笑顔をみせ、それ以外は素っ気無い表情でジョグで自陣に戻るというのが常だった。
[編集] 所属チーム
[編集] 代表経歴
- 1988年 - 欧州選手権優勝
[編集] 個人タイトル
- バロンドール (1988年、1989年、1992年) - 3度の受賞は最多タイ
- 世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌) (1988年、1992年)
- ゴールデンブーツ(1986年)
- FIFA最優秀選手賞 (1992年)
- リーグ得点王(1984年~1987年:エールディヴィジ、1990年&1992年:セリエA)
[編集] 監督歴
- オランダ代表 2004-
先代: ルート・フリット |
欧州年間最優秀選手 1988, 1989 |
次代: ローター・マテウス |
先代: ジャン=ピエール・パパン |
欧州年間最優秀選手 1992 |
次代: ロベルト・バッジョ |
先代: ローター・マテウス |
FIFA最優秀選手 1992 |
次代: ロベルト・バッジョ |
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