フランドル伯
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フランドル伯(Comte de Flandre)は現在のベルギー北部、フランス北部のフランドル地方を864年から1795年まで支配した領主、またはその称号。
フランドル地方はフランク王国分割の際に843年のヴェルダン条約では中フランク王国に属したが、870年のメルセン条約では西フランク王国に大部分が併合された。フランドル伯は形式上は西フランク王の封建臣下となったが、東西フランク王国(後にはフランス王国と神聖ローマ帝国)の緩衝地帯として両方と関係しながらも大幅な独立性を保っていた。フランドル伯家はカロリング家やイングランド王アルフレッド大王の血統を引いた名家であり、ノルマンディ公ギヨーム(ウィリアム征服王)やフランス王フィリップ2世はフランドル伯家と婚姻することにより、王としての正統性を高めている。
フランドル伯家は、イングランド王家やフランス王家とつながりを保ちながら婚姻政策を中心にエノー伯領、アルトワ伯領など周辺の領域に勢力を広げ、その支配地域は、11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄えた。ボードゥアン7世が跡継ぎ無く死去すると一時、後継争いが激しくなり混乱したが、アルザス家のティエリーがフランドル伯を継ぎ安定した。十字軍にも参加し1202年の第4回十字軍ではボードゥアン9世がラテン帝国皇帝となっている。
しかし、この後は女性領主が続き、経済的には最盛期が続いていたが、都市市民の力が強くなり、一方ではフランス王権がフィリップ2世以降非常に強力になったため、その圧迫を受けることになった。
フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙っており、当時のフランドル伯ギーはイングランド王エドワード1世と結んで対抗したが、1297年にフィリップ4世はフランドルの併合を宣言し、1300年にギーを捕らえ、ジャック・ド・シャティオンをフランドル総督に任命した。
しかし、その支配が過酷だったため、1302年5月18日にブルージュにおいて市民の反乱が起こり、フランス人を虐殺した。再び侵攻して来たフランス軍に対しフランドルの諸都市は同盟を結びこれに抵抗し、1302年7月11日にコルトレイクにおける金拍車の戦いで歩兵中心のフランドルの都市連合軍が騎士中心のフランス軍を破った。これにより、その後も和睦と戦闘を繰り返しながらフランドル伯家は存続した。
百年戦争時にもフランドル伯はしばしばイングランド側に付いており、マルグリット3世がブルゴーニュ公フィリップ2世と結婚し、以降、ブルゴーニュ公と同君連合となった。シャルル突進公が戦死した後、その娘マリーと結婚したハプスブルク家のマクシミリアン1世に受け継がれた。
カール5世の後、ハプスブルク家がスペインとオーストリアに分裂した際はスペイン領となり、スペイン継承戦争の後はオーストリアのハプスブルク家に戻り、1795年のフランス革命の際にフランドル伯の称号は廃止された。現在では、ベルギー王家の王子の儀礼的称号となっている。