フランシスコ・デ・ゴヤ
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フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes, 1746年3月30日 - 1828年4月16日)は、スペインの画家。ディエゴ・ベラスケスとともに、スペイン最大の画家。べラスケス同様、宮廷画家として重きをなした。
[編集] 生涯
1746年、スペイン北東部サラゴーサ近郊のフエンデトードスに生まれる。14歳の時から約4年間、サラゴーサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。この間、のちにゴヤの義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ(バイユー)に出会う。
27歳の時、バエウの妹ホセーファと結婚。その後離婚。
1774年、バエウの手引きでマドリードへ出て、1775年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わる。
このように、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤは、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリッド、1808年5月3日』、『巨人』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。
1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインを侵略し、翌1808年にはスペイン王フェルナンド7世を退位させて、ナポレオンの兄ジョーゼフがホセ1世としてスペイン王位についた。事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけて半島戦争のさなかにあった。
こうした動乱の時期に描かれたのが『マドリッド、1808年5月3日』、『巨人』などの作品群である。1810年には版画集『戦争の惨禍』に着手している。1815年、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディアというドイツ系の家政婦と同棲していた(ゴヤの妻はその3年ほど前に死去)。
1819年にはマドリード郊外に「聾者の家」と通称される別荘を購入した。1820年から1823年にかけて、この「聾者の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵」と通称されるものである。
当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命。1828年、亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
現在は、マドリード郊外にあるサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂(Ermita de San Antonio de la Florida)に眠っている。この聖堂の天井に描かれたフレスコ画、『アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。
カルロス4世とその家族を描いた集団肖像画は、一見普通の宮廷肖像画にみえるが、仔細にみると、いかにも暗愚そうなカルロス4世の風貌や、狡猾で底意地の悪そうな夫人の表情などには、ゴヤの精一杯の風刺が感じられる。
[編集] 代表作
- 巨人(1808年-1812年頃)(プラド美術館)
- わが子を食うサトゥルヌス(1820年-1823年)(プラド美術館)