ロタール1世
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ロタール1世(Lothar I,795年 - 855年10月29日)は、父ルートヴィヒ1世と共同皇帝(在位:817年 - 840年)、単独での皇帝(在位:840年 - 855年)。中フランク王(在位:840年 - 855年)。
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[編集] 生涯
[編集] 父の帝位継承
795年、ロタールは、カール大帝の息子ルートヴィヒ(のちの皇帝ルートヴィヒ1世)の長男として生まれた。即ち、カール大帝の孫にあたる。祖父カール大帝は、この5年後にあたる800年、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を授かった。(「カールの戴冠」)
フランク族の伝統に従い、祖父カール大帝はその領土を分割相続する手筈を整えた。ところが、息子があいついで没したため、ロタールの父ルートヴィヒが単独相続することになった。祖父カール大帝が没した814年、ロタールは父からバイエルンの支配を任された。
父ルートヴィヒ1世は敬虔王の異名を持ち、宮廷内の粛正を図るなど敬虔、厳格な人物であった。その彼は、アーヘンの王宮の一部が崩壊し負傷したことを、死の訪れという神の意志と判断し、817年、三人の息子への帝国分割を定めることにした。(結局、父ルートヴィヒはその後23年間も長生きするのだが。)
[編集] 兄弟間での確執
こうした経緯で、長男のロタールは父ルートヴィヒとともに帝位についた。(なお、2男ピピンはアキタニア王、3男ルートヴィヒ(のちの東フランク王ルートヴィヒ2世 )はバイエルンを任された。ただし、ルートヴィヒの死後はロタールのものになるとされた。)さらに818年、ロタールはイタリア王の地位を手に入れた。その後、ロタールは単独の帝位を狙って、幾度か父ルートヴィヒに反乱を起こすことになる。
「カールの戴冠」によって復興した「(西)ローマ帝国」は、宗教的権威の中心ローマと、政治的権力の中心アーヘンという、いわば二つの中心を持つ帝国であった。ロタールは、そのローマとアーヘンを結ぶライン川、モーゼル川流域などの支配を強化しようとしたが、これが兄弟同士の激しい抗争をもたらす。
当時、父ルートヴィヒの2番目の妻の息子、シャルル(のちのシャルル2世(禿頭王)がフランク王国西部で勢力を伸ばしていた。そのシャルルと、バイエルンなどを支配していた3男のルートヴィヒが、兄のこれ以上の権力強化を懸念して叛旗を翻すことになった。一方で、2男のピピンはロタールを支持していた。すなわち、シャルルとルートヴィヒ対ロタールとピピンという兄弟争いの構図が形成された。
[編集] フォントノワの戦い
841年、オーセール近郊のフォントノワで、兄弟同士の熾烈な戦闘が展開され、多くの戦士たちが命を失った。この時のあまりの犠牲が、ノルマン人に対する西欧の抵抗力を弱めたとする指摘すらある。この戦いで勝利したのは、シャルルとルートヴィヒであった。
まもなく初代西フランク王(フランス王)となるシャルルと、初代東フランク王(ドイツ王)になるルートヴィヒは、ストラスブール(シュトラスブルク)で、互いに協力し合う誓約を交わした。これが、842年の「ストラスブールの宣誓」と称される。20世紀に至るまで、独仏の果てしない争奪戦の舞台になるアルザスのストラスブール、その地で初代の王が手を結ぶのは歴史の皮肉である。
こうして、ロタールは3男、異母兄弟との妥協を余儀なくされ、842年にブルグンド(ブルゴーニュ)のマコンで和平が成立した。その後、領土分割などをめぐっての数度の協議を経て、843年にヴェルダンで最終的な承認がなされた。(詳細な内容はヴェルダン条約を参照)
[編集] フランク王国の分裂
ヴェルダン条約では、三人の兄弟それぞれがフランク人の王であることが確認された。これをもって、フランク王国は正式に、西フランク王国(フランス王国)、東フランク王国(ドイツ王国)、中フランク王国へと分裂した。
855年、ローマ皇帝のロタール1世は、自らの死が目前であることを悟る。そして、長男ルートヴィヒ2世(この場合はロタールの3男であり、東フランク王のルートヴィヒ2世とは異なるので注意されたい)に皇帝の称号とイタリア、2男のロタール2世にロートリンゲン(ロレーヌ)など、3男のシャルルにニーダーブルグンドとプロヴァンスなどを分割相続した。こうして中フランク王国が三分された結果、フランク王国は五つにまで分裂してしまった。
[編集] 関連項目
先代: ルートヴィヒ1世(ルイ1世) ”敬虔王” |
中フランク王国国王 | 次代: ルートヴィヒ2世 |
次代: ロタール2世 |
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次代: シャルル(カール) |