フライデー襲撃事件
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フライデー襲撃事件(フライデーしゅうげきじけん)とは、1986年12月9日未明、写真週刊誌『フライデー』に女性関係を暴露されたことに怒りを感じていたビートたけし(北野武、以下たけし)が、出版元の講談社を襲撃した事件である。通称「フライデー事件」「ビートたけし事件」「たけし事件」。
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[編集] 概要
1986年12月8日、たけし(当時、39歳)が交際していた専門学校の女子生徒が、フライデー記者に校門で急襲取材をされ、怪我を負った(軽くもみあった程度で、怪我の程度はごく軽いという説もある)。たけしはフライデーに事の経緯を直談判で説明するよう求めたが、講談社側は無視。その為、憤怒するたけしは「取材のことで今から抗議に行く」と通告。翌12月9日未明(深夜)、たけしはたけし軍団11人(そのまんま東(29)、大森うたえもん(23)、ガダルカナル・タカ(30)、ダンカン(28)、松尾伴内(23)、柳ユーレイ(23)、グレート義太夫(27)、大阪百万円(23)、キドカラー大道(22)、水島新太郎(19 当時少年A表記)、サード長嶋(20)の各氏、事件当時の年齢)と共に講談社本館のフライデー編集部を襲撃した。なおラッシャー板前はこの当時痔で入院をしていた為に、また井手らっきょとつまみ枝豆も諸事情により襲撃には立ち会わず、事件に関与しなかった。
報道によれば、たけしと軍団員はフライデー編集部に集団で押しかけ、傘や消火器(いずれも現場にあったもの)を用い、同誌の編集長及び編集部員らに暴行を働いたという。直後にたけしと軍団員は所轄署により現行犯逮捕される。たけしと軍団員が頭から上着をかけられ東京拘置所に移送される様子が、芸能ニュースではなく一般ニュースとしてテレビ放送され、社会現象と言えるほどの反響を呼ぶことになった。
その後たけしは「謹慎」として、長く芸能活動を自粛。1987年6月10日、たけしに東京地方裁判所で懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決が言い渡された。たけしは「判決に服する」として控訴せず、刑が確定した(事件の元となった記者も、世論の背景により裁判を受けることになり、こちらも刑が確定している)。たけしは芸能活動を再開したが、「時期尚早ではないか」と批判する声もあり、出演するテレビ局に右翼団体が抗議に訪れるなど、しばらくは事件の影響が尾を引くことになったと言われる。
また毒舌やホンネ発言で売っていたたけしが、この事件以降、芸人としていわば牙を抜かれた状態になったと指摘する向きもある。たけし自身、ラジオ番組の中で「執行猶予の身で過激な芸を行うことは出来ない」という発言をしたことがある。
後日、そのまんま東はこの時の事を「全員、襲撃するつもりはなく、抗議をするだけで殴るつもりはなかった。ただ、講談社関係者の対応が『どうぞ、殴ってください。これも記事にしますんで』と、悪態を付いたのがどうしても許せなかった」と語っている。また、たけし自身は「一発殴って終わりにして、みんな(フライデー社員含)で飲みに行くつもりだった」と自著で述懐している。
事件の顛末や識者の意見をまとめた書籍として「たけし事件」(監修・筑紫哲也、1987年、太田出版)がある。
[編集] 反響
人気絶頂の芸能人が集団で暴行を行い逮捕という前代未聞の事件に対し、日本中が大きく揺れることになった。「行き過ぎた報道が悪い」というたけしへの同情論、「いかなる事情があっても暴力はいけない」「人気芸能人が青少年や社会に与える影響は大きい」という厳しい意見など、様々な議論が巻き起こった。当時の新聞記事によると、新聞社には賛否両論を含めて、通常の倍以上の投書が殺到したという。また、たけしのファン層である若年層には同情論も多かったが、問題の解決策として暴力行為に及んだ点や事件の発端がたけしの不倫であった点に対しては強い批判が存在し、世論は割れていた(たけしは既婚で子供もいた)。人気を背景として、たけしが半ば強引に芸能活動を再開したことについても、違和感を持つ層は少なくなかった(後の田代まさしの不祥事の際と同様、芸能界を引退すべきという厳しい意見もあった)。
この事件以降、以前から過激な報道姿勢で問題となっていたフライデー等の写真週刊誌に対し多くの批判の声が上がり、一時期に比べ発行部数も大幅に減少。「Emma」や「TOUCH」といった写真週刊誌がほどなく廃刊することになった。事件の当事者である講談社も影響を受けたが、「フライデー」は2006年現在もなお存続している。
講談社のライバル会社である小学館は、たけし擁護の立場をとった。これは「週刊ポスト」にたけしのコラムが連載されていたためと見られる。被害を受けた講談社が、徹底的にたけしを非難した一方、自分の取材姿勢を正当化したのとは対照的だった。とはいえ皮肉なことに小学館の写真週刊誌「TOUCH」は事件の2年ほど後に廃刊し、講談社の「フライデー」は存続する結果となっている。
政界でもプライバシーの問題と合わせ、大きく取り上げられる事になった。当時、中曽根康弘内閣の官房長官だった後藤田正晴(故人)が「ビート君の気持ちも分かる」と発言したことも話題になった。久米宏等のマスコミ関係者は後藤田発言を受け、「この事件が言論統制の根拠として使われる可能性がある」として警戒する意見を述べた。この事件が個人情報保護法(政治家や有力者の疑惑報道を困難にする悪法という意見がある)成立の遠因の一つと見る向きもある。
なお事件翌日は、タイトーのたけしの挑戦状発売日であったが、こちらは事件の影響もなく、無事発売予定日に発売されている。
[編集] たけし軍団
「師匠が行くなら俺たちも」と愚直に、たけしと共にフライデースタッフに飛びかかる軍団を尻目に、そのまんま東は入り口付近でタバコを吸いながら傍観を決め込んでいた事実があった。また東は「“酔っていて記憶がない”という言い訳を作るため、あらかじめ缶ビールを飲んでいった」とか「しぶしぶ後ろをついて歩いて一番最後にエレベーターに乗ったら、出る際に一番最初になってしまった」など襲撃に対して消極的だったと思えるコメントも事件後にしている。暴力沙汰に加勢する事の是非はさておき、後からこの事実を知った他の軍団は本来長男たるべきそのまんま東のこの時の姿勢に不信感を隠せず、その後決して埋める事の出来ない深い溝が生まれた。「襲撃に行けなかったメンバー」、「行けて暴れたメンバー」、「行けたが何もしなかったメンバー」と、以後軍団には厳密に3層に別れた意識構造が存在する事になる。
謹慎中、たけし軍団全員に対し「もう俺もお前らも芸能界にいられなくなっちゃって、ごめんな。土方やってでもお前らを一生養わなきゃなぁ」と言った。これを聞いた軍団は「一生付いていきます!」と一斉に号泣。軍団とたけしの繋がりが一層強くなった事件という言い方も出来る。
ただし「暴力を美談にするのはいかがなものか」という見方は事件当時から現在まで一貫して存在する。たけし軍団という閉ざされた集団の中での価値基準がどうであろうと、それが他社に対して暴力をふるっていいという根拠にはなり得ない。
[編集] 後日談
その後、1998年2月20日号の「フライデー」に篠山紀信撮影による、ビートたけしがフライデー編集部を訪れる写真が掲載された(篠山紀信著「写真は戦争だ」河出書房新社より)。11年ぶりの和解とされている。