フライシャー・スタジオ
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フライシャー・スタジオ(Fleischer Studios, Inc.)は、ニューヨーク州ニューヨーク市ブロードウェイ1600番地で設立されたアニメーション制作会社に端を発するアメリカの企業である。フライシャー・スタジオは1921年にマックス・フライシャー(Max Fleischer、1883年7月19日-1972年9月11日)とデイブ・フライシャー(Dave Fleischer、1894年7月14日-1979年6月25日)のフライシャー兄弟により設立され、1942年1月にパラマウント映画に買収されるまで同兄弟により経営されていた。フライシャー・スタジオは初期のウォルト・ディズニー・プロダクション(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)の最も重要な競争相手であり、『道化師ココ』『ベティ・ブープ』『ポパイ』『スーパーマン』などのカートゥーン映画を制作した点で注目に値する。
[編集] 無声映画作品
マックス・フライシャーによる、人間の演技をアニメーションで再現するロトスコープの発明により、フライシャー・スタジオの歴史は始まった。この装置を使って、フライシャー兄弟は1919年にブレイ・スタジオと契約し、『インク壺の外へ(原題:Out of the Inkwell)』と題されたシリーズ作品を制作した。この作品には、フライシャー兄弟による最初のキャラクターである道化師ココが登場する。このシリーズは大きな成功を収め、1921年にフライシャー兄弟は彼ら自身のスタジオを設立するための信用を獲得した。
1920年代を通じて、フライシャー・スタジオは知的なユーモアと多くの革新性を備えた、一流アニメーション制作会社の一つであった。この当時のフライシャーの作品には、有名なバウンシング・ボール方式を特徴とするミュージック・ビデオの原型であるシング・アロング形式の短編映画『ココ・ソング・カーチューン(原題:Ko-Ko Song Cartunes)』から、相対性理論のような主題を扱った教育アニメーションが含まれていた(訳注:シング・アロングとは、スクリーン中の映像に合わせて観客が一緒に歌える形式の映画。バウンシング・ボールは、表示される歌詞の上をはねるボールにより観客に次の歌詞を教える仕組み)。
世界初のトーキーである『ジャズ・シンガー』公開の何年も以前に、フライシャーは音声を備えた複数の実験映画を制作していた。しかしながら電気式スピーカーの設備を備えた劇場は少数であったこともあり、これらの音声付き短編はほとんど注目されなかった。
『カム・テイク・ア・トリップ・イン・マイ・エアシップ(原題:Come Take a Trip in My Airship)』『いとしきネリー・グレイ(原題:Darling Nelly Gray)』『なつかしきケンタッキーのわが家(原題:My Old Kentucky Home)』『イン・ザ・オールド・サマー・タイム(原題:In the Good Old Summer Time)』などの1ダース以上の初期のカートゥーン映画で画像と音声を同調させるために、フライシャーはリー・デ・フォレストの方式を採用した(訳注:三極真空管の発明者リー・デ・フォレストは、トーキーの考案者でもある)。
[編集] トーキーおよびカラー作品
1920年代後期のトーキー映画の採用に際して、『ココ・ソング・カーチューン』の続編である『スクリーン・ソング(原題:Screen Songs)』シリーズにより、フライシャーは状況の変化を巧みに乗り切った数少ないアニメーション制作会社の一つとなった。まず最初に、『ザ・サイドウォークス・オブ・ニューヨーク(原題:The Sidewalks of New York)』が1929年2月5日に公開された。同年の10月に、フライシャー兄弟は『トークトゥーン(原題:Talktoons)』と題された新しいシリーズを発表した。このシリーズの初期作品のほとんどは一話完結のカートゥーンであったが、最終的には新キャラクターである犬のビンボーがシリーズの主役となった。ビンボーはすぐに彼の恋人であるベティ・ブープに取って代わられ、ベティはフライシャー・スタジオの花形となった。ベティ・ブープはアメリカン・アニメーションにおける最初の主役を演じた女性キャラクターであり、フライシャー独特の大人びた都会的な雰囲気を漂わせたキャラクターだった。
E・C・シーガルの漫画キャラクター『ポパイ』のカートゥーンシリーズへの使用許諾を得た時に、フライシャー兄弟の成功はより堅固なものとなった。最終的に『ポパイ』はフライシャー兄弟が制作した最も有名なシリーズ作品となり、その成功はウォルト・ディズニーのミッキー・マウス物に匹敵した。1930年代後半に制作された3本のテクニカラーによる『ポパイ』の特別作品は、多くの映画館で併映作品、あるいは本編作品として上映された。
残念ながら、1930年代に幸運の女神はフライシャーを見放し始めた。1934年に映画作品に厳しい検閲を課すヘイズ規制がハリウッドで制定された。その結果、ベティ・ブープからは色気が取り除かれ、彼女の魅力の多くは失われてしまった。より悪い事に、フライシャーは配給元であるパラマウント映画から、フライシャー独特の作風を剽窃したウォルト・ディズニーの作品と作風を模倣するようにとの圧力を受ける事になった。フライシャーによる最も顕著なディズニーの模倣作品は、ディズニーの『シリー・シンフォニー(原題:Silly Symphonies)』シリーズのコピーである『カラー・クラシック(原題:Color Classics)』シリーズである。
[編集] 後期作品
ディズニー・スタジオを模倣しようとするフライシャー・スタジオの努力は、ついにはディズニーの『白雪姫(原題:Snow White and the Seven Dwarfs)』の成功を受けた長編アニメーション作品を生み出すこととなった。パラマウントはフライシャーに融資を行い、節税と、1937年に痛烈な打撃を与えた組合活動を解散させる目的で、フロリダ州マイアミに大規模なスタジオが建設された。新フライシャー・スタジオは1938年3月に開設され、初長編作品である『ガリバー旅行記(原題:Gulliver's Travels)』を皮切りに、活発な制作活動を開始した。
『ガリバー旅行記』は1939年のクリスマスに公開され、そこそこの成功を収めたものの、その物語とアニメーションの質は模倣しようとした『白雪姫』に遠く及ばなかった。『ガリバー』から次の長編アニメーション『バッタ君町へ行く』までの期間に、この時期のフライシャーの最高傑作が生み出された。アメリカン・コミックのスーパーヒーローを題材にした高品質な連作短編『スーパーマン』である。単純に『スーパーマン(原題:Superman)』とのみ題されたこのシリーズの第一作は、10万ドルの予算がつぎ込まれ、それまで上映された短編アニメーションの中で最高の作品となり、アカデミー賞にノミネートされた。
しかしながら、この成功はフライシャーの財政的な問題を解決させるには遅すぎた。マイアミの新スタジオで新規雇用されたスタッフたちは、安定した生産のために多くの作品を作り続けた。継続して制作されていた短編シリーズ『ポパイ』や1941年の『ラガディ・アン&アンディ』のアニメーション化作品など、この期間に生産された多くの短編アニメーションは高い品質を保っていた。その他のそれなりに成功した作品としては、短編シリーズ『Stone Age』や『ガリバー』の様々なスピンオフ作品がある。
収益が低下するにつれ、フライシャーはパラマウントからの絶え間ない借金の督促にさらされ、フライシャーの株は担保として次々とパラマウントに占有されていった。加えて、マックスとデイブのフライシャー兄弟は以前から口も利かないほどの不仲になっていた。パラマウントは1940年から1941年までのフィルム・シーズンの融資と引き換えに、フライシャー兄弟の辞職をパラマウントの裁量に委ねる旨の書類への署名を要求した。1941年5月24日、パラマウントはフライシャー・スタジオの完全な所有権を獲得し、フライシャー・スタジオの組織を新たな法人会社フェイマス・スタジオ(Famous Studios)に編入した。フライシャー兄弟は1941年末まで制作管理として残っていた。
『バッタ君町へ行く(原題:Mister Bug Goes to Town)』は1941年12月に公開された。現在では傑作と認知されている『バッタ君町へ行く』は当時の観客に受け入れられず、すぐに上映終了となった。この後、デイブ・フライシャーはコロンビア映画の系列会社であるカリフォルニアのスクリーン・ジェムズ・アニメーションスタジオの代表となるために、フライシャー・スタジオを退社した。彼らの競争相手の共同経営者となったデイブ・フライシャーに対し、パラマウントは預かっていた辞表を行使し、借金を請求してフライシャー・スタジオを破産させ、フライシャー兄弟を正式に同社から解雇した。マックス・フライシャーはジャム・ハンディ・スタジオに移籍し、イサドア・スパーバー、ダン・ゴードン、マックスの義理の息子シーモア・ニーテルが、1943年に再びマイアミからニューヨークへ移転した新会社フェイマスの新たな代表となった。フライシャーは二度と業界の主流に返り咲くことはなかったが、フライシャーのアニメーション映画とキャラクターの人気は生き残り続け、1980年代までには、フライシャー兄弟がアニメーション産業の先駆者であると認識されるに至った。
今日のフライシャー・スタジオは、ベティ・ブープや道化師ココなどのキャラクター使用認可のみを取り扱う、名目のみの企業である。