パーシー・グレインジャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
パーシー・グレインジャー(Percy Grainger, 1882年7月8日 - 1961年2月20日)は、オーストラリア生まれのピアノ奏者、作曲家である。メルボルン近郊のビクトリア州ブライトンで生まれ、ニューヨーク市で亡くなった。 父親のジョン・H・グレインジャーは有名な建築家で、メルボルンのプリンセス橋(1888年竣工)を設計している。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 少年時代から青年時代
1892年7月、10歳のグレインジャーはピアノ奏者としての最初の演奏会をメルボルンで開き、12歳の時には最初の演奏旅行に出ている。その後、1895年5月に母、ローズ・アニー・グレインジャーと共にドイツのフランクフルトへ赴き、ピアノ演奏と作曲を学ぶ。 1901年、19歳の彼は母とイギリスのロンドンへ渡り、そこで才能が開花した。この間に『植民地の歌』と『モック・モリス』が出版されている。
1907年の夏、ノルウェーのTroldhaugenに作曲家、グリーグ(1843-1907)を訪ね、彼の自国の音楽を大切にする心に民俗音楽への興味を引き起こされたグレインジャーは、エジソンによって発明された蝋管蓄音機を使い、イギリスを回り、民謡を歌い手らから収集し、また、それらの編曲も行った。グリーグは自らの指揮とグレインジャーのピアノによる演奏旅行を計画したが、実現の数週間前にグリーグが帰らぬ人となる。その後のグレインジャーは、グリーグのピアノ協奏曲を他の作品よりも多く演奏しており、また、グリーグの未亡人ニーナからは遺品の金の懐中時計を贈られている。
彼はピアノ奏者として、ドイツ、オランダ、北欧での演奏会を多く開いている。また、スカンジナヴィアやイギリス、ヨーロッパ大陸諸国の音楽家達との交際があり、その中には、ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)、ハーマン・サンドビー(Herman Sandby)、ディーリアス、シリル・スコット(Cyril Scott)、バルフォア・ガーディナー(Balfour Gardiner)、R.シュトラウス(Richard Strauss)、エネスク(George Enescu)、ドビュッシー、エルガーらの名前があった。
1908年、グレインジャーが26歳の時に、彼の最初の録音がグラモフォン社によってなされた。この年、彼は女子運動選手のためのブラジャーをデザインしており、また、翌年にかけては、オーストラリアの女性歌手、アダ・クロスリーとの祖国への演奏旅行がなされた。 指揮者、トーマス・ビーチャムに勧められグレインジャーがバレエ音楽The Warriors を書いたのは1913年から1916年にかけてのことである。
[編集] 1914年 第一次世界大戦勃発
6月28日のサラエボでの銃声から世界は第一次大戦へと向かうが、その年の9月、32歳のグレインジャーはアメリカへ移住し、そこで終生を過ごした。この年、出版社シャーマーと契約し、翌1915年、ピアノ奏者としてニューヨークでのデビューを果たした。
1917年の4月、34歳の時に父が亡くなり、この年の6月に楽隊員として軍に入隊する。フォート・ハミルトンの第15歩兵団に配属され、ここでオーボエとサキソフォンの演奏を覚える。1918年にグレインジャーはアメリカ合衆国の市民権を得ており、代表作となったピアノ曲、『カントリー・ガーデン』はこの年に書かれている。1919年に軍を除隊した。
彼の音楽は従来の常識的な編成にとらわれず、大編成の木管楽器での合奏や、複数配置された合唱隊や打楽器、ピアノのための作品も4手や8手のものも書いている。主な作品は、ピアノの独奏、三重奏、四重奏等であるが、『カントリー・ガーデン』も例外でなく、大きな編成の木管合奏への編曲もなされた。この時期がピアノ奏者として、また、作曲家としての最盛期であった。身長約173cm、体重は約66Kg、ブロンドの髪を長く伸ばし、「走るピアニスト」と言われたように、階段を駆け上がり、演奏は町から町へ歩いて、または走って移動した。
1922年、彼の音楽的な才能を伸ばすため、ドイツ、イギリス、その後アメリカへ共に行動した母親が自ら建物から飛び降り、亡くなるが、彼は1928年に詩人で画家でもあったスウェーデン人のエラ・ストロームと46歳で結婚している。 翌1929年、シカゴ市民歌劇場でのThe Warriors の演奏が、47歳のグレインジャーの指揮する3台のグランド・ピアノと最大編成の管弦楽によって行われた。
1932年から1933年にかけて、グレインジャーはニューヨーク大学の音楽学部長を務め、1938年、彼が57歳の時にグレインジャー博物館が開館した。 彼は1941年に、エッセイ『如何にして私は菜食主義者になったか』を書いている。 1914年以来2度目となるイギリスでのピアノ公演が1947年に行われ、1950年、68歳の時に彼は、アメリカのNational Institute of Art and Letters から表彰された。
[編集] 晩年
近代のエレクトロニック・シンセサイザーの先駆者とみなされている科学者Burnett Crossと共同して、Free Music machines(自由音楽機?)を創り出した。この前衛的な創作活動は1952年(70歳)暮まで続き、結局はシュトックハウゼンの作品が脚光を浴びることにつながった。
1953年(71歳) 腹部の癌の手術を数回受け、作曲活動は続けていたが、身体上はその後回復に向かうことはなかった。
1955年(73歳) 「性(Sexuality)」に関するエッセイを書くが、自分の死後10年間は公開しないとの遺言であった。
1961年2月20日(79歳) ニューヨークのWhite Plainsの自宅で前立腺癌のため死亡した。
南オーストラリアの州都アデレードの家族の墓地に葬られた。
グレインジャーは極度に多忙な生活であったが、1200曲以上の作品と編曲を残しているのは驚くべき事である。
彼は、過去の偉大な音楽家として3人を挙げており、それはベートーヴェンと、ディーリアスと、デューク・エリントンだという。
[編集] 主要作品
- 組曲「リンカーンシャーの花束」 Lincolnshire Posy
- 戦士たち ~想像上のバレエ音楽 The Warriors, The Music to an Imaginary Ballet
- 組曲「早わかり(要約すれば)」In a Nutshell
- カントリー・ガーデン Country Gardens
- トレイン・ミュージック(汽車の音楽) Train Music
- 羊飼いの呼び声 Shepher's Hey
- ヒル・ソング第1番 Hill Song No.1
- ヒル・ソング第2番 Hill Song No.2
- デリー地方のアイルランド民謡 Irish Tune from County Derry
- 子供たちのマーチ「丘を越えて彼方へ」 Over the Hills and Far Away, Children's March
- 岸辺のモリー Molly on the Shore
- ローマの権力とキリスト教徒の心 The Power of Rome and the Chiristian Heart
- コロニアル・ソング Colonial Song
- 不変のド The Immovable De
[編集] 外部リンク
カテゴリ: オーストラリアの作曲家 | イギリスの作曲家 | アメリカ合衆国の作曲家 | 吹奏楽の作曲家 | 近現代の作曲家 | ビクトリア州の人物 | ニューヨーク市 | 1882年生 | 1961年没