パット・パターソン
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パット・パターソン(Pat Patterson)のリングネームでの活躍で最も知られるピエール・クレモント(Pierre Clemont、1941年1月19日 - )はカナダの元プロレスラーである。ケベック州モントリオール出身。
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[編集] 経歴
少年時代からプロレスラーを夢見ていたが、体が小さかったため相手にされず、15歳の頃団体の裏方として働き始める。その時リングで活躍していたキラー・コワルスキーに夢を打ち明けたところ意を汲んでくれ、マンツーマンの指導を受ける機会に恵まれる。その甲斐あって1958年にプロレスデビュー。若干16歳という若さであった。またこの当時からパット・パターソンのリングネームを名乗っていた。
1960年代はNWA所属団体を中心に活動し、サンフランシスコではトップスターとなった。レイ・スティーブンスとの名タッグで鳴らし、1968年には日本プロレスへも参戦している。1970年代には一時期マスクマンとしても活動している。また新日本プロレスへも参戦している。
1979年にWWF(現WWE)に入団。同年9月には、テッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取し、それをIC王座と改称し、団体の最高位の王座とした。1980年代初頭のWWF主要レスラーとして活躍していたが、1984年に現役を引退した。
現役引退後はWWFへスタッフとして勤務し、ブッカーとしてストーリー立案に関わった。1996年にはWWE殿堂入りを果たしている。1997年のモントリオール事件のブッカーの一人であるとされ、またWWFのアティテュード路線における主要なブッカーでもあった。引退後の2000年6月19日には、ハードコア王座を戴冠している。
2003年のRAW10周年記念特番では、ミーン・ジーン・オーカーランドと共に『放送に問題あり賞』のプレゼンターを務めた。尚、この時この賞を受賞したのは、自身も関わったマーク・ヘンリーとメイ・ヤングのラブストーリーであった。
2004年に入り、トリプルHの起用法を巡りビンス・マクマホンと対立、結果同年10月にWWEを退団したが、2005年5月にWWEへ復帰している。
[編集] 得意技
- アトミックドロップ
- 足4の字固め
[編集] タイトル歴
- WWE
- 北米ヘビー級王座 : 1回
- IC王座 : 1回(初代王座)
- ハードコア王座 : 1回
[編集] 逸話
- 非常に人間味のある性格の持ち主。アントニオ猪木が若手時代、サンフランシスコに遠征し、慣れぬ地で孤独を味わっていた頃、パターソンは猪木に話しかけ、食事をご馳走したという。パターソン自身もフランス語圏出身で英語に苦労し、孤独を強いられていた頃があったため、猪木の境遇がよく理解できたという。ブッカーとして高い信頼を得ることができたのも、こういった性格によるところが大きい。
カテゴリ: カナダのプロレスラー | WWE | 1941年生