ハンス・ベルメール
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ハンス・ベルメール(Hans Bellmer, 1902年3月13日 - 1975年2月23日)は、ポーランドのカトヴィツェ(当時はドイツ帝国領)出身の画家、グラフィックデザイナー、写真家。ナチ党の政権掌握後の1930年代中頃に、等身大の少女人形を制作したことで知られる。
超現実主義者(シュルレアリスト)に分類されるベルメールだが、人形の制作にあたっては、ドイツの情勢を支持する仕事はしないと宣言して、ナチズムへの反対を表明した。変化した形と型破りのポーズにあらわれているように、ベルメールの人形は、当時ドイツで盛んだった行き過ぎた健康志向に向けられたものである。ベルメールの作品は、女性美への言及と若い体つきの性愛化のために、アンドレ・ブルトンら当時のパリのシュルレアリストに歓迎された。1934年、人形の白黒写真10枚を収めた『人形』(Die Puppe)をドイツで自費出版する。その写真は、初めて作った人形を背景の前に置き、活人画のシリーズとして撮影したものであった。
日本においては、1965年に雑誌『新婦人』に澁澤龍彦がハンス・ベルメールの球体関節人形を紹介したのが、ベルメールの作品が広く知られるきっかけになった。
[編集] 略年譜
1902年 シレジア地方、カトヴィツェにて裕福な技師の長男として生まれる。
1921年 (後にナチス党員となる)父親に対しての反抗的な態度のため、一時期矯正目的のため、炭坑や製鉄所での労働を強いられる。
1923年 父親のすすめによりベルリン工科大学に入学。
1924年 ダダイストのジョージ・グロスやオットー・ディクス、ジョン・ハートフィールドとの交遊が始まり大学を中退。植字工見習いとして働き始め、小説の表紙画や挿絵を手がける。
1926年 ベルリン郊外のカールスホルストにデザイン事務所を開く。
1928年 一度目の結婚。
1932年 妻マルガレーテの病気療養のためチュニジアとイタリアに滞在。帰途の際コルマールに滞在。その際マティアス・グリューネヴァルトの『イーゼンハイム祭壇画』を見て深い感銘を受ける。秋、ベルリンにてE.T.A.ホフマン原作のオペラ『ホフマン物語』を観劇。その中の一編には美しい自動人形の少女が登場する『砂男』があった。
1933年 ナチスの政権掌握。抗議のため社会貢献としての職業を放棄。フリーのアーティストとなる。最初の人形制作に着手。皮膚が破れ、もとの木枠をむき出しにした状態の人形であった。この時点ではまだ球体関節を持った人形は制作されていない。
1934年 写真集『人形』を自費出版で刊行。アンドレ・ブルトンらパリのシュルレアリストの賞賛を受け、シュルレアリスム機関誌『ミノトール』の表紙を飾る。
1935年 2月、パリに滞在し、ポール・エリュアールやアンドレ・ブルトンと出会う。シュルレアリスム・グループ展にデッサンを出品。3月、ドイツに帰国。ベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館にて展示されていた16世紀のドイツの球体関節を持った木製の人形と出会い、人形制作のインスピレーションを得る。球体関節人形を制作。
1936年 『人形』フランス語版を刊行。ロンドンやニューヨークなど多くのシュルレアリスム展に出品。翌37年には東京のシュルレアリスム国際展にも出品。雑誌『みずゑ』にも写真作品が掲載される。
1938年 2月、病気がちであった妻マルガレーテ死亡。春にはナチスの脅威を逃れパリに移住。マルセル・デュシャンやマックス・エルンスト、イヴ・タンギーらと出会う。
1939年 9月、第二次世界大戦勃発。ドイツ国籍のベルメールは同じくドイツ国籍のマックス・エルンストと共に南仏のミユ収容所に抑留される。後にベルメールはエルンストの肖像画を残している。翌40年解放され南仏カストルにとどまる。
1942年 再婚。翌年双子の女児をもうける。
1946年 一時期往信不通であったドイツの家族との連絡が再開。父の死を知る。ジョルジュ・バタイユの小説『眼球譚』の銅版画による挿画に取りかかる。
1947年 2番目の妻との離婚。パリにてはじめての個展。
1949年 ポール・エリュアールの詩とベルメールの写真から成る『人形の遊び』刊行。
1953年 戦後初めて母国ドイツに一時滞在。作家ウニカ・チュルンとの交際が始まり翌54年よりパリで同棲生活に入る。
1957年 著書『イマージュの解剖学』刊行。散文体で記された文章のなかに、自身の作品における身体と、言語実験や精神病理学の関連への言及がみられる。その多くは39年の収容所時代に執筆されたものであった。日本語版は1975年種村季弘による翻訳で刊行される。
1958年 ウニカをモデルとした緊縛写真を撮影しはじめ、その中の一点が『シュルレアリスム・メーム』誌の表紙を飾る。
1959年 母の死。ベルリンに一時期滞在。
1961年 銅版画集『サドに』刊行。
1965年 ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』の挿画を手がける。
1970年 恋人ウニカ・チュルンの投身自殺。
1971年 パリ、国立現代美術センター(CNAC)で大規模な回顧展。
1975年 2月、癌により没。パリ・シカゴ・ジュネーヴにてベルメール展。
[編集] 日本で刊行されている主な写真集
- 『ザ・ドール ハンス・ベルメール人形写真集』 河出書房新社 2004年
- 『ハンス・ベルメール写真集』 アラン・サヤグ著(佐藤悦子訳) ブッキング 2004年(1992年のリブロポート版の復刊)
- 『シュルレアリスムと画家叢書 骰子の7の目−2 ハンス・ベルメール』 サラーヌ・アレクサンドリアン著(澁澤龍彦訳) 河出書房新社 初版1974年 増補新版初版2006年