ドン・コサック軍
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ドン・コサック軍(―ぐん、ロシア語:Донское казачье войскоダンスコーイェ・カザーキイェ・ヴォーイスカ)は、ロシア帝国の軍事組織で、コサック軍(コサック兵)のひとつ。帝国内最大のコサック勢力であったドン・コサックによって構成され、南部ロシアや東部ウクライナを中心にその勢力圏を持った。体制派・帝政派のコサックの代表格であり、民衆の弾圧者、また革命への反逆者というイメージが強く形成されてきた。
たんにドン・コサック(Донские казакиダンスキーイェ・カザーキ)とも呼ばれ、民族集団のドン・コサックと混同される。民族集団のドン・コサックと軍事組織のドン・コサックは区別するのが本来的であるが、民族集団のドン・コサックとドン・コサック軍とは実質的に重なるため、特に区別せずドン・コサックと呼んでも差し障りはない。
この他、日本語文献内ではドン・コサック兵、ドン・カザーク軍、ドン・カザーキ軍、ドン・コザック軍などとも書かれる。いずれも訳語の問題であり、意味するものは同じである。
その他、ロシア内戦期に関しては白ドン・コサック軍(または白色ドン・コサック軍;Белоказаки Донской армийビラカザーキ・ダンスコーイ・アールミイ)などという呼称も用いられる。「ドン軍の白軍コサック軍(白コサック軍)」という意味であるが、ドン・コサック軍が白軍(白衛軍)としてドン軍(Донская армия)に参加していたため、このような名称で呼ばれた。一方、ソヴィエト勢力に加担したコサックは赤コサック軍と呼ばれ、白ドン・コサック軍が降伏した一部は、赤ドン・コサック軍となった。
[編集] 概要
[編集] 歴史
ドン・コサック軍は、16世紀にドン・コサックの軍事組織として成立した。名称は、根拠地を流れる大河ドン川に由来した。当初はモスクワ大公国やロシア帝国に対する反乱を起こすこともしばしばあったが、次第に帝国の体制に組み込まれていった。
ロシア皇帝ピョートル1世によって推し進められた組織の改変に反発し、ドン・コサック軍はウクライナのヘーチマーン、イヴァーン・マゼーパと結ぶなどしてピョートルに対し敵対行動をとった。ピョートルに敗れた後、ドン・コサック軍の一部は1737年からオスマン帝国へ逃亡を始め、クバーニ地方に居を構えるようになった。その後、一部はルーマニアに組み込まれた。
一方、ロシア帝国領内に留まったドン・コサック軍はロシア帝国から認められた南ロシアから東ウクライナの一帯、現在のロストフ、ヴォルゴグラード、ルハーンスク、ドネーツク、ヴォローネシュ、カルムイク共和国一帯をテリトリーとしていた。この地域は、帝政時代にはドン軍県と呼ばれ、ドン・コサックは皇帝へ忠誠を誓い軍務に就く代わりにこの地方での一定の自治を認められていた。中央集権の強いロシア帝国では、このように自治権が認められることはきわめてまれであった。そのため、ドン・コサックは半ば特権階級と化した。
弾圧行動としてよく知られたのは、ロシア第一革命中にオデッサで起きた戦艦ポチョムキンの反乱で、ドン・コサック軍が市街において民衆の武力弾圧を行い大勢の死傷者が出た。
ロシア帝国のドン・コサック軍はロシア帝国の軍隊として働き、数々の戦争に参加した。露土戦争やクリミア戦争での活躍が知られる。また、祖国戦争でも7万のドン・コサック兵がナポレオン軍と戦った。
第一次世界大戦中の1916年には、ドン・コサック軍は150万の兵力を誇り、帝国内で最も強大な軍事組織のひとつとなった。ロシア革命後、ドン・コサック軍は白軍中最大の勢力となり、ラーヴル・コルニーロフの指揮の下赤軍に大きな損害を与えた。しかし、1918年には祖国を追われることとなった。その後もドン・コサック軍はドン軍(Донская армияドンスカーヤ・アールミヤ)として南ロシア軍内で活動を続け、組織を維持した
その後、白軍の敗北によりドン・コサック軍はトルコへ亡命した。この亡命の道は、旧来ロシア帝国に追われたロシアやウクライナのコサックたちの辿った道であった。ドン・コサック軍は、1962年までトルコに居住し、その後は帰国の許されたロシアやアメリカ合衆国へ移住した者が多かった。
現在は、ロシア連邦国内のかつての居住地に、一部のドン・コサックが従来のような自治権を持って居住している。
[編集] 評価
ドン・コサック軍に対しては、しばしば否定的な評価がなされてきた。
一般に、コサック集団は初期には帝政時代に推し進められた民衆への弾圧や農民の農奴化から逃れるための受け皿としての性格があった。これが度重なるロシア帝国への敗戦ののち、次第に体制側へ転換していき、19世紀には逆に弾圧する側の軍事組織と変貌した。ドン・コサック軍はその代表格であり、しばしば武力を持って民衆の生命を脅かしたため、多くの人々から恐れられ、忌み嫌われた。だが、その背景にはロシア人のコサックに対する差別もあった。
ドン・コサックが弾圧側の代表となっていった背景には、しばしばモスクワを脅かした強大な軍事力と巧みな政治力によりうまく体制側に取り入り、生き残ってきたという経緯があった。これに対し、同じく大きな勢力であったザポロージエ・コサックやヤイク・コサックなどは、他の道を探った結果軍事的・政治的な敗北により亡ぼされていった。ドン・コサックには、ロシア帝国の体制側に取り入ることより他に生き残る道は残されていなかった。
ロシア内戦期にも、ドン・コサック軍は皇帝への忠誠を守った。その結果、ボリシェヴィキとの戦争で赤軍に敵対し、ソ連時代には「悪役」の代表格として嫌われた。ソ連中期にはロシア国内への帰国が認められ、ソ連末期にはその名誉の回復も進んだが、現在でも一般に嫌われる傾向は薄まったとは言えない。また、「コサックの国家」を自認する人の多いウクライナでも、ドン・コサック軍は「悪いロシアのコサック」というレッテルを貼られ、嫌われる傾向が強い。
逆に、ドン・コサック軍に関係する人々の間では自らがドン・コサック軍の一員であることは強い誇りであり、現在もロシアの一部で伝統や習慣に基づいた独自の生活を送っている。