クリスチャン4世 (デンマーク王)
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クリスチャン4世(Christian IV、1577年4月12日- 1648年2月28日)はデンマークとノルウェーの王(在位1588年4月4日 - 1648年)で、フレデリック2世の息子。1577年フレデリックボルクの生まれる。父王の死に伴い王位を継承。デンマークの改革者として、しばしば記憶される、絶頂期と没落を体験した、悲劇の名君である。
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[編集] 改革者としての王
優雅な生活にもかかわらず、彼は様々な国内の改革を含め、多彩な方面に業績を残している。彼はまた、国軍のためにも多くのこと行った。新しい城塞をオランダ人技術者の指導のもと建設させた。王立海軍は1596年には22隻の艦船しか保有していなかったのが1610年には60隻に増え、いくつかの艦船は彼によってデザインされた。陸軍の編成は一層難しかった。彼は主に傭兵に依存せざるを得なく、それを王領の小作人から徴募した国軍で補った。
クリスチャン4世は、重商主義の波がヨーロッパを覆いつつある時代の流れに乗り、デンマークの海外進出政策を創始した。デンマークの最初の植民地が1620年にインドの南海岸のトランケバル(Tranquebar)に建設された。彼はまた、「デンマーク東インド会社」を許可した(1616年)。これは「デンマーク海上帝国」の維持に大いに役割を果たす。
[編集] カルマル戦争
彼の組織した陸軍は、最初の戦いでは華々しい成果を挙げた。デンマークは、スウェーデンとの戦争において、(中心となる作戦がスウェーデンの東の砦、カルマルを攻略することだったので、この戦争は一般的にカルマル戦争(1611年-1613年)として知られている)で勝利を収め、1613年1月20日の「クネレド条約」においてスウェーデン王のグスタフ・アドルフから全面的な譲歩を勝ち取った。この戦いは、クリスチャンが対スウェーデンで唯一、優位に立った戦争であった。
彼は次に、ドイツに関心を転じた。彼の目的は二つの面を有していた。すなわち、一つはバルト海、北海の北の海の覇権を獲得する手段として、大きなドイツの川エルベ川とヴェーザー川の統制を得ること、もう一つは彼の息子たちために、資産として、ブレーメンとフェルデンの二つの非宗教化された司教区を獲得することである。
彼は、1620年の「白山の戦い」後のプロテスタント勢力の混乱を巧く利用し、1621年9月に、彼の息子フレデリックにブレーメンの補佐職を確保し、類似の取り決めがフェルデンでも調った。ハンブルクには1621年7月にシュタインブルクの盟約によって、ホルシュタインのデンマークの大君主の地位の承認させた。
[編集] 30年戦争
1623年以降、北ドイツに於けるカトリック勢力の伸張に対し、クリスチャンは、純粋に政治的理由から30年戦争への介入を考えるようになっていた。それでもしばらくは持重していたのだが、フランスなど西方勢力からの要請もあり、またグスタフ・アドルフが自分に代わってプロテスタントの盟主になるのではないかとクリスチャン自身が恐れていたこともあり、とうとう、他国との協力について十分な約束も取り付けないまま、神聖ローマ帝国皇帝勢力に対する戦争に参戦した。
1625年5月9日、クリスチャンはデンマークを離れ前線へ赴いた。彼は19,000から25,000の兵を指揮し、緒戦ではまずまずの戦果を挙げた。しかし1627年8月27日、ティリー伯にルッターの戦い(Battle of Lutter-am-Barenberge)で一敗地に塗れ、1627年の夏にはティリー伯とワレンシュタインに劫略の限りを尽くされ、神聖ローマ帝国におけるデンマークの公爵領とユトランド半島全域を占領された。 極まったクリスチャンは、1628年1月1日、スウェーデンとの同盟を結成し、グスタフ・アドルフから必要な場合には艦隊を援軍に送ってもらうという約束を取り付けた。ほどなく後、「スウェーデン・デンマーク同盟」の陸軍と艦隊は、シュトラルズントを包囲していたワレンシュタインを撤退させることに成功した。かくして、海軍の優越によってデンマークは最大の危機を乗り切り、クリスチャンは領土を失うことなく1629年5月、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世との「リューベックの和約」にこぎつけることができた。
[編集] 宮廷の陰謀と外国冒険 1629年-1643年
クリスチャン4世は今や失意の中にあった。彼は度重なる不運のせいで一時的に絶望感に苛まれていた。彼は、政治的希望だけではなく、家庭の幸せまでもを失っていたのである。1628年に、彼は、王妃クリスティーナ・ムンクと一人のドイツ人役人との間の密通に気づいた。彼が王妃を押しやると、王妃は、ヴィーベーケ・クルーズという彼女の元メイドの一人とクリスチャンとの間の秘め事を承認することで、自身の不名誉を覆い隠すことにに努力した。1630年の1月、破局は決定的となり、クリスティーナはユトランドの邸宅に隠棲した。一方、クリスチャンは公然とヴィーベーケを愛人として認め、彼女は王との間にたくさんの子供を産んだ。もちろん、ヴィーベーケの産んだ子供たちは、クリスティーナの産んだ子供たちの天敵であり、両者の憎悪は、それからのデンマークの歴史に影響を与えることになった。しかし、1629年から1643年の間にクリスチャンは人気と影響力を増大させた。彼はもう一度、エーレスンド海峡の通行料やデンマークの外交政策の統制を獲得し、その終わりの時期には、彼の義理の息子であるクロフィッツ・ウルフェルトとハンニバル・ゼーシュテットの助力を得て、一層の勢力増大を欲した。ふたりの義理の息子は以前から傑出していた。
不遇な時期にあっても、クリスチャンは決して挽回の希望を失うことはなかった。また、1629年から1643年の間のヨーロッパは、野心ある政治家には無限のチャンスが得られるような情勢になっていた。 クリスチャンは聖人君子ではなかったし、一貫した政治的定見を持っているわけでもなかった。 彼は、これ以後の彼の最も危険な敵である、スウェーデンを手なずけるわけでも、明確な反スウェーデン包囲網を構築して国を護ろうとするわけでもなかった。1632年にグスタフ・アドルフが死んだ後は、皇帝に味方するような仲裁を行い、彼はドイツにおけるスウェーデンの影響力を低下させようとして、わずかな優位を拾い集めた。 しかし、彼の全体的なスカンジナビア政策は、スウェーデンにとって忌々しいものであり、スウェーデンの政治家たちは、デンマークとの戦争はただ時間の問題だという考えるようになっていった。そして、1643年の春、スウェーデンは動き出した。
スウェーデンはその頃、三十年戦争の征服事業のおかげで、デンマークを東方からだけでなく南方からも攻撃できる状況にあった。オランダとの同盟によって海上での安全も保証されており、デンマークを攻撃すれば、デンマークが和平交渉に乗じてスウェーデンに不利益を被らせることを阻止するができた。 5月にスウェーデンの枢密院は戦争を決定し、12月にスウェーデンの陸軍元帥、レンナルト・トルシュテンソンはボヘミアから進軍し、デンマークの南の国境を越え、1644年の1月末までにはユトランド半島全域を占領した。この攻撃は予期されていなかったものであり、最初から最後まで完璧な手腕と雷光のような迅速さで遂行されたので、デンマークは絶望感に包まれた。 幸いにも、彼の臣民のために、混乱と四面楚歌の状況にあっても、クリスチャン4世は自分の責務を知りそれを果たす勇気を有していた。
1597年10月27日に彼はブランデンブルク辺境伯でプロイセン公のヨアヒム・フリードリッヒの娘のアン・キャサリンと結婚した。14年後に死ぬまで、この王妃はクリスチャンとの間に6人の子供を産んだ。彼女の死から4年後に、王は賢明な若き上流婦人、クリスティーナ・ムンクと結婚した。彼女によってクリスチャンは12人の子供を持ち、それによってデンマークは悲惨なことになるのだが。クリスチャンはまた初めてマクベス劇を上演した。彼には合法非合法を含めて26人の子供がいたと信じられている。
[編集] スウェーデンとの戦い
彼の66歳の時、彼はもう一度洋々たる青春期のすばらしい精力のようなものを示した。日夜、陸軍を徴募と、海軍の装備に努めた。 幸いにも彼にとっても、スウェーデン政府が1644年の2月まで交戦を延ばした、そのためデンマーク人は十分な防御の準備をしてマルメの重要な要塞も維持できた。 トルステンソンは、艦隊の不足で、ユトランド半島からヒュン島へ横断することができなかったし、彼の支援のためのオランダ艦隊はシュレスヴィヒ西岸のシルト島とレーメ島の間でデンマークの提督によって撃破された。 トルステンソンとその軍をスウェーデンの大艦隊でデンマークの島へと輸送するもう一つの試みは1644年7月1日にクリスチャン4世自身によって失敗させられた。 その日、2隻の戦艦がコルベル・ヒース(Kolberge Heath)およびキール湾で遭遇し、そしてクリスチャンは英雄的行動を見せた、それは後世、デンマーク人が彼を慕い、その名を歌と物語で有名にさせるものである。彼が戦艦「三位一体号」の後甲板に立っているとき、近くの一門の大砲がスウェーデン軍の砲弾で爆発し、そのときの木と金属の破片は王の体を13箇所と傷つけ、片目を潰し、王を甲板上へと吹き飛ばした。しかし、彼はすぐに立ち上がり、彼は無事であると大声で叫び、戦闘終了まで甲板に残りつつ、全軍に任務を命じた。
暗闇は交戦中の両艦隊を分離し、戦いは長期化したが、デンマーク艦隊はキール湾でスウェーデン艦隊を妨害することで優勢となった。だがスウェーデン、オランダ連合軍の侵攻によるデンマーク艦隊の全滅はフェメルンとローラントの間での激しい戦いの後の9月の終わりには、クリスチャンをしてフランスと各国連合からの調停に応じることを強いることになった。この戦争は、デンマーク側から、トルシュテンソン戦争と呼ばれている。 1645年2月8日和平はとうとう「ブレムセブルー条約」として署名された。この条約ではデンマークは、ノルウェーは2州 を失う間に、ゴトランド島、エーセル、と30年間の期限付きでハランドを譲らなければならなかった。
この結果、デンマークは、バルト海の覇権をスウェーデンに奪われる事となった。制海権も無くし、事実上、北方の小国に追い遣られたのである。しかもこの後、バルト帝国に君臨したスウェーデンによって、亡国の憂き目に遭わされると言う屈辱まで味わうのである。一方、海軍は、バルト海から締め出されたものの、「デンマーク海上帝国」の維持には成功し、この後、18世紀末まで繁栄を続ける事となった。
[編集] 晩年と遺産
The last years of the king were still further embittered by sordid differences with his sons-in-law, especially with the most ambitious of them, Corfitz Ulfeldt. On February 21 1648, at his earnest request, he was carried in a litter from Frederiksborg to his beloved Copenhagen, where he died a week later and was buried in Roskilde Cathedral.
Christian IV was a good linguist, speaking, besides his native tongue, German, Latin, French and Italian. Naturally cheerful and hospitable, he delighted in lively society; but he was also passionate, irritable and sensual. He had courage, a vivid sense of duty, an indefatigable love of work, and all the inquisitive zeal and inventive energy of a born reformer. His own pleasure, whether it took the form of love or ambition, was always his first consideration. In the heyday of his youth his high spirits and passion for adventure enabled him to surmount every obstacle with plan. But in the decline of life he reaped the bitter fruits of his lack of self-control, and sank into the grave a weary and brokenhearted old man.