クリスチアーノ・ダ・マッタ
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F1での経歴 | |
国籍 | ブラジル |
活動年数 | 2003 - 2004 |
所属チーム | トヨタ |
出走回数 | 28 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 13 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 2003年オーストラリアGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 2004年ドイツGP |
クリスチアーノ・ダ・マッタ(Cristiano da Matta, 1973年9月19日 - )は、ブラジル人のカーレーサー。2002年のCARTチャンピオンで、F1にも参戦していた。
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[編集] プロフィール
ダ・マッタの父はブラジルで14度のツーリングカー・チャンピオンに輝いたドライバーであった。ダ・マッタ自身は16歳でKartデビューするが、すぐにトップクラスの実力を見せ、数々の勝利を得る。その後、1993年にはブラジルのフォーミュラ・フォードで、1994年にはブラジルF3でチャンピオンを獲得する。
1996年にはヨーロッパに戦いの場を移し、国際F3000へ参戦していたが、1997年にアメリカでインディライツに参戦。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得する。1998年には同シリーズで7勝をあげてチャンピオンを獲得すると、1999年にCARTへトヨタエンジンを搭載したTeam Arciero Wellsから参戦する。2000年に早くも初優勝を果たすと、2001年からは名門ニューマン・ハースのシートを獲得し、2002年にチャンピオンに輝いた。
この活躍を見て、同年よりF1参戦を開始していたトヨタがダ・マッタのF1への移籍のため翌年以降のニューマン・ハースとの契約を調整、ダ・マッタはF1に参戦することとなる。2003年のイギリスGPではレース中コースへの闖入者が現れたことによりセーフティカーが導入され、直前にピットインをしていたダ・マッタは13周目、同僚のオリビエ・パニスとの1-2走行を果たす。16周目でパニスはキミ・ライコネンに2位を譲りダ・マッタも間もなくライコネンに追いつかれるが、その後のライコネンの激しいアタックにもミスを犯さず30周目にピットインするまでレースをリードし続け、『CARTのアイスマン』健在を示した。(結果は7位入賞) また、予選が雨により混乱していた日本GPでは予選3位を得るなど、この年はF1デビューイヤーとしてはまずまずの成績を収め、ルーキー・オブ・ザ・イヤーも獲得した。
しかし、2004年になると、トヨタのマシンは戦闘力を落とし、その中でダ・マッタ自身もチーム首脳との関係を悪化させ、ついにドイツGP終了後に、サードドライバーのリカルド・ゾンタにシートを譲ることになった。
2005年は再びアメリカに戻り、チャンプカーシリーズにPKVレーシングから参戦、第4戦ポートランドで早くもPKVにとっては初の優勝を与えながらも最終的にはシリーズ11位と失意のシーズンに終わった。2006年のシリーズ開始直前に下位チームながら立て直しを図るチームオーナー、デイル・コイン氏のもとDale Coyneレーシングからの参戦を発表した。
2006年8月3日ロードアメリカでテスト中にコース上に進入した鹿とターン6にて激突。右フロントタイヤで跳ねられた鹿が、コクピット側に飛び頭部に重症。一時は意識不明となったが、硬膜下血腫を取り除く手術を受け、集中治療室で快方に向かっている。
[編集] 経歴
- 1997年 インディライツ(チーム:Brian Stewart Racing)(マシン:)ルーキー・オブ・ザ・イヤー
- 1998年 インディライツ(チーム:Tasman Motorsports)(マシン:ローラB99/30ビューイック)チャンピオン
- 1999年 CART(チーム:Arciero-Wells Racing)(マシン:)
- 2000年 CART
- 2001年 CART(チーム:Newman=Hass)
- 2002年 CART(チーム:ニューマン ハース)(マシン:ローラB2/00トヨタ)チャンピオン
- 2003年 F1参戦(チーム:トヨタ(TOYOTA))(マシン:トヨタTF103)
- 2004年 F1(チーム:トヨタ(TOYOTA))(マシン:トヨタTF104)
- 2005年 CCWSチャンプカー・ワールドシリーズ参戦(チーム:PKVレーシング)
- 2006年 CCWS(チーム:Dale Coyneレーシング)
- 2006年 CCWS(チーム:RuSPORT)