キタノカチドキ
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1971年3月27日 |
死没 | 1983年9月7日 |
父 | テスコボーイ |
母 | ライトフレーム |
生産 | 佐々木節哉 |
生国 | 日本(北海道門別町) |
馬主 | 初田豊 |
調教師 | 服部正利(栗東) |
競走成績 | 15戦11勝 |
獲得賞金 | 2億1147万8800円 |
キタノカチドキは、日本の競走馬。1974年に皐月賞と菊花賞の二冠を制覇、テスコボーイ初期の代表産駒である。半妹にエリザベス女王杯勝ち馬リードスワローがいる。
500キロの大柄な馬格に比べ、小振りで端正な顔や頭という事もあり、関西の期待を一身に背負った。同期には、コーネルランサー(日本ダービー)・フジノパーシア(天皇賞・宝塚記念)・アイフル(天皇賞)等がいる。
怪物ハイセイコー騒動から作られたルール・シード(後の単枠指定)馬の栄誉を最初に受けた(皐月賞で記録)馬としても有名である。因みに、このルールは、1991年10月5日より馬番号連勝複式勝馬投票券(馬連)の全国発売開始に伴うシード制廃止直前、1991年9月22日第45回セントライト記念迄続いた(この時の単枠指定馬:レオダーバン)。
[編集] 戦績
デビュー戦から3連勝で挑んだ阪神3歳ステークス(2着・イットー)、更に3勝を重ねて挑んだ皐月賞(2着・コーネルランサー)を共に快勝。7連勝で挑んだ日本ダービーであったが、名手・武邦彦に『不安を通り越して、恐怖を感じた』と言わしめた大本命故の不安・厩務員ストによる日程変更(3週間ずれ込んだ為、この年の皐月賞は中山で無く府中で開催)・外枠発走(7枠19番)が響いたのか、最後の直線でヨレたのが致命傷となりよもやの3着に破れてしまう(優勝コーネルランサー・2着インターグッド(着差ハナ))。
その後神戸新聞杯・京都新聞杯を快勝し、迎えた菊花賞では圧倒的一番人気(単勝120円、31年後にディープインパクトに破られるまで菊花賞最低単勝配当だった)を快勝し、同年の年度代表馬を受賞した。テスコボーイ産駒としては、ホクトボーイ(トウショウボーイの同期)と並び最も距離に融通性を持っていた。
しかし、古馬になってからは勝てたレースがマイラーズカップしかなく、天皇賞ではイチフジイサミに直線で競り負けて敗れる不覚をとり、果てはラストランとなった有馬記念では調整不足が響いたのか競走生活唯一の着外、菊花賞4着で挑戦した勝ち馬イシノアラシに遅れを取る8着に敗れた(実は競走中に故障発症(骨折)していた)。
[編集] 引退後
引退後はテスコボーイ後継種牡馬として、八大競走勝ち馬こそ送り出せなかったものの重賞勝ち馬を毎年送り出していた。だが、1983年9月7日に突然の心臓発作により急逝。トウショウボーイに勝るとも劣らない能力を伝え切れずにこの世を去ってしまったのである。代表産駒はタカノカチドキ(主な勝ち鞍:京都4歳特別)・ラドンナリリー(東京3歳優駿牝馬(大井競馬場)を制したエリザベス女王杯勝ち馬リンデンリリーの母)等。
なお、名マイラー、ニホンピロウイナーはキタノカチドキの半妹、ニホンピロエバート(父・チャイナロック)の産駒であり、キタノカチドキの甥である。