エジプト第5王朝
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エジプト第5王朝(紀元前2494年頃 - 紀元前2345年頃)は、エジプト古王国時代の古代エジプト王朝。エジプト第4王朝時代に引き続いてピラミッドの建設が行われた。第5王朝のピラミッドは第4王朝に比べて遥かに小規模であるが、ピラミッド・テキストと呼ばれる碑文がはじめて残されるようになる時代であり、歴史的重要性は前王朝にひけを取らない。太陽神ラーへの信仰が非常に強まった時代でもあり、宗教的にも後代のエジプトに大きな影響を残した。
目次 |
[編集] 歴史
エジプト第5王朝の最初の王とされているのはウセルカフ(マネト[1]の記録ではウセルケレス)である。ウセルカフは第4王朝の王ジェドエフラーの王女ネフェルヘテプ(またはネフェルヘテペス)の息子として生まれた。彼の父の名は知られていない。そして同じく第4王朝の王であるメンカウラー(ジェドエフラーの甥にあたる)の王女ケンタカウエス1世を妻として王座についた。このようにウセルカフは第4王朝の王族と極めて濃密な血縁関係を持っているが、少なくてもマネトはウセルカフの即位を持って王朝の交代と見なしており、現代の区分もそれに従っている。
ウェストカー・パピルスと呼ばれるパピルスにヒクソス(紀元前18世紀-16世紀前後)時代に記述された文学作品『魔法使いジェディの物語』には、魔法使いジェディがクフ王に対し、クフ王の王朝が彼の子供カフラーとメンカウラーの間だけ続くこと、そして太陽神ラーが、ラー神官の妻ルドデデドに産ませた三つ子、ウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラー・カカイらの新しい王家に王位を奪われるであろうと予言したと記録されている。この物語に史実的要素を見出すのは困難であるが、エジプトではマネトより1500年以上以前には既にウセルカフの即位が王家の交代であると見なされいたことが確認できる点が非常に重要である。即ち、ウセルカフの即位を持って王家が交代したと見なす考え方はマネトの独自見解ではなく、エジプト社会における極めて伝統的な歴史認識であった。
マネトは第5王朝の王達がエレファンティネ(古代エジプト語名アブー、現在のジャジーラ・アスワン)出身であると記録しているが、この点に関しては他に傍証は無い。王朝の祭儀や行政的な面ではラーを祭るヘリオポリス(古代エジプト語名イウヌ)が重要であった。ウセルカフが王位を獲得した実際の経緯は不明瞭であるが、彼の持つ第4王朝の王族との姻戚関係が重要な要素であったことは疑うべくもない。また、ウセルカフ以降の第5王朝の王達は太陽神殿を次々と建設しており、ラーに対する寄進を熱心に行っていたことも知られている。このことからラー神官たちもウセルカフの王位獲得になんらかの役割を演じたであろうことが推定される[2]。しかしウセルカフの政治上の活動について具体的なことは何も知られていない。
ウセルカフの息子サフラーの治世にはアジア(現在のレバノン、パレスチナ地方)やリビアへの遠征が行われた。このことはサフラーが建設したピラミッドに残された彩色壁画から知ることができる。またパレルモ石と呼ばれる碑文の記録によれば、彼の治世にはプント(恐らく現在のソマリア地方)との交易が行われたとあり、サフラー時代の第5王朝社会の活発な様子が伺われる。サフラーの死後、恐らくは彼の弟であるネフェルイルカラー・カカイ(カカイ・ネフェルイルカラー)が即位した。ネフェルイルカラーは第5王朝の王の中では最大のピラミッドを残している。
ネフェルイルカラーの後の数名の王は統治年数が短く記録も乏しい。ネフェルイルカラーの跡を継いだのはシェプセスカラー・イシ(シェプセスカラー)であった。シェプセスカラーのものではないかと推定される建造物がいくつか発見されているが、その実態については何もわかっていない。一説にはサフラーの息子であったと言われているが不詳である。シェプセスカラーの次にネフェルイルカラーと王妃ケンタカウエス2世の息子だったネフェルエフラーが即位した。しかし彼の治世も短かったであろうと推定されている。ネフェルエフラーの墓から、彼のミイラの一部が発見されているが、その分析の結果ネフェルエフラーは20代前半で死去したことがわかっている[3]。
ネフェルエフラーの死後、彼の弟であるニウセルラーが王位を継いだ。マネトはニウセルラー(マネトの記録ではラトゥレス)が44年間にわたって統治したと記録するが証拠は乏しい。しかし、彼の治世が比較的長いものであったことは現代の学者によって支持されている。ニウセルラーはシナイ半島での勝利を描いた碑文を残しているが、実際の戦勝を記念したものか、単に「王の勝利」を象徴したものかはわかっていない。ただ、実際にシナイ半島方面での軍事活動は行われていたと考えられている。そして非常に規模の大きい太陽神殿を建設しており、強力な王であったと考えられる。
次のメンカウホルについては記録が少なく、わかっていることは少ない。メンカウホルの次のジェドカラー王についても同様であるが、ジェドカラーの名がネフェルイルカラー王の葬祭殿跡で発見されたパピルス文書の断片に登場し興味深いものである。これは現在までに知られている最古のパピルス文書である[4]。またジェドカラーに使えた宰相プタハヘテプは、第3王朝時代のイムヘテプなどと並ぶ賢人として古代エジプトで名を知られることになる人物であった。また重要な変化として、ジェドカラー王は太陽神殿を建設していない。彼の次の王ウナスも太陽神殿を建設しておらず、エジプト第5王朝における宗教勢力の変動が推定されうる。
最後の王ウナスにはマネトらの記録によって長期の統治期間があったことが知られているが、彼についてもあまり知られていない。ウナスに関連した重要事項はピラミッド・テキストの登場である。従来ピラミッドの内部には碑文等は何も記されないものであったが、ウナス王の時代になって初めて王の葬儀の際に唱えられた呪文などが記録されるようになった。この文書から当時のエジプト人の死生観や宗教観が読み取ることができる。恐らくウナス王のピラミッド・テキストの内容は、パピルスかもしくは口伝によって伝えられてきたより古い文書形式を反映していると考えられている。そのため宗教史的、また政治史的に重要な史料となりうるのである。
ウナス王は長期にわたって王位にあったにも関わらず男子に恵まれなかったという。そのため死後に深刻な後継者問題が生じた。政治混乱の末、紀元前2345年頃にウナス王の娘とされるイプト1世[5]を妻としたテティ1世が王座を獲得した。マネトはこれをもって第5王朝と第6王朝の交代としており、他の史料もこの見解を支持している。
[編集] ピラミッド
エジプト第5王朝時代には第3・第4王朝時代に引き続いて活発にピラミッドが建設されている。しかし、ジェセル王の階段ピラミッドや、ギザの大ピラミッドに代表される以前のピラミッドに比較して第5王朝のピラミッドは小規模であり、建築自体も粗雑である。このため現在では第5王朝のピラミッドの多くは崩壊して原型をとどめていない。これを第3・第4王朝と第5王朝の国力の差と見なす考えもあるが、ウセルカフ王時代より第5王朝は対外遠征を活発に行っており、また王の力や統治期間に関係なく第5王朝時代を通じてピラミッド規模は一定水準のまま変化しなかった。ピラミッドの小規模化、粗雑化は王権観の変化がより重要な要素であったと考えられる。
第5王朝の王のうち、サフラーからネウセルラーに至る4人の王はアブ・シールにピラミッドを立てた。このうちネフェルイルカラーの建設したピラミッドは高さ約70メートル、一辺約110メートルの規模を持ち、ギザの三大ピラミッドの1つであるメンカウラー王のピラミッドよりやや大きい。その他のピラミッドは高さ50メートル、一辺70 - 80メートル程度であった[6]。しかしピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)と呼ばれる付属建造物は熱心に建設されており、その装飾や行政システムは前代までの王朝に比べて拡大し、精密になった。ピラミッド自体も規模や内部の粗雑さはともかく、表面は上質の石灰岩で覆われており、建設当初であれば見た目だけは前代までのピラミッドと比較しても遜色なかったと言われている。神殿を飾る彫刻は、以前までに比べてより空想的・理想的な王の姿を一定の型に基づいて描く事が重視されており、王の正統性を示す儀式を行うことにより重きがおかれるようになっていった。こうした儀式はピラミッド複合体を建設した王の死後も継続することになっていたため、各ピラミッド複合体には付属のピラミッド都市が建設され、祭礼に携わる人々が居住した。ピラミッド都市の原型は第4王朝時代に登場し、第5・第6王朝時代には大きな意味を持つようになっていった。
ピラミッド・テキストと呼ばれるピラミッド内の碑文がウナス王のピラミッドに初めて登場したことは前述の通りであるが、このピラミッド・テキストは後代のエジプト文学作品の1つである『死者の書』などとも関連性が指摘されている。そして、恐らくそれまではパピルスか口伝で伝えられてきたその内容は、現在知られている古代エジプト語の文書でも最古の形態を示している。
[編集] 太陽神殿
太陽神殿は、王の理念上の祖先である太陽神ラーを祭るための神殿である。第5王朝の王達はヘリオポリスのラー神殿に対して莫大な寄進を繰り返しており、ラー信仰は王にとって極めて重要な宗教政策であったのは確実である。『魔法使いジェディの物語』にも反映していると見られるラー信仰と第5王朝の結びつきは、第4王朝から第5王朝への交代の正統性を確保する目的で加速された。ウセルカフ王以来第5王朝の王は熱心に太陽神殿を建立しているが、この太陽神殿は単にラーの偉大さを称えるための神殿ではなく、死後にラーと王が一体化するための場でもあったと推定する学者もおり、ラーと王権の一体性を強調することが第一義的な目的であったといわれている。
この太陽神殿の基本的な構成はピラミッド複合体に似た付属建造物を持ち、ピラミッドの代わりに基壇があってその上に巨大なオベリスクがそびえていた。この基壇とオベリスクという構成は、ヘリオポリスのラー神殿にあった高い砂とベンベン石とよばれる神聖物を模したものである。太陽神殿とピラミッド複合体は経済的に密接に結びついており、ともに王に葬祭を支える重要施設として建設が続けられた。
この太陽神殿は、最後の二代(ジェドカラー、ウナス)の王の時代には建設されなくなっており、王権理念・宗教的な変化が注目される。具体的な経緯はよくわかっていないが、王権の側がラー以外の諸神の信仰をも重要視するようになっていったと思われる。特に王権の象徴であるホルス神の父とされた冥界の神オシリス神は、ウナス王時代に重要な神として登場し、オシリス神に対する呪文もウナス王のピラミッド・テキスト内に含まれる。以後オシリス神は王の復活の思想にかかわる重要な神としてエジプトの葬祭儀式での重要性を増していくことになる。
[編集] 歴代王
古代エジプトの王は、自らがホルス神の化身であることを示すホルス名や、上下エジプトの守護女神の化身であることを示すネブティ名(二女神名)を初めとして、複数の名前を用いていた[7]。しかし、エジプト第3王朝以後、カルトゥーシュ名[8]を重要視する傾向が高まり、第4王朝の時代に入るとカルトゥーシュ名がホルス名以上に重要視されるようになった。第5王朝時代にはそのラー信仰を反映してラーの子名(誕生名)が加わった。そして即位名の他に、この誕生名がカルトゥーシュ(第2カルトゥーシュ)の中に表記されるようになった(カカイ、イシなど)。以下に示す一覧はまずカルトゥーシュ名を記し、括弧内にホルス名を記す。
- ウセルカフ(イルマート 在位7年間)
- サフラー(ネブカウ 在位14年間)
- ネフェルイルカラー・カカイ(ウセルカウ 在位10年間 カカイ・ネフェルイルカラーとも)
- シェプセスカラー・イシ(セケムカウ 在位7年間)
- ネフェルエフラー(ネフェルカウ 在位7年間?)
- ニウセルラー(イセトイブタウィ)
- メンカウホル・イカウホル(メンカウ 在位8年間)
- ジェドカラー・イセシ(ジェドカウ)
- ウナス(ウァジタウィ 在位30年間 ウニスとも)
なお、マネトの記録した王統は以下のようになる。
- ウセルケレス
- セフレス
- ネフェルケレス
- シシレス
- ケレス
- ラトゥレス
- メンケレス
- タンケレス
- オンノス
全員の同定が可能であり、恐らくはマネトがかなり正確な王名表を参照することができたことが推定されうる。
[編集] 注
- ↑ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
- ↑ ラー神官の動静に関する史料は少なく、慎重な意見も多い
- ↑ http://www.ancient-egypt.org/index.html 内、5th Dynasty、Neferefreの項目を参照
- ↑ 参考文献『考古学から見た古代オリエント史』参照。
- ↑ ウナス王の親族関係についてはほとんどわかっていない。イプト1世をウナス王の娘とする見解も確実ではない
- ↑ これらの数値は『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』の記述に基づく。
- ↑ これらの王名が完全に定着するのはもっと後の時代のことになる。
- ↑ カルトゥーシュと呼ばれる枠の中に表記される名前。第4王朝時代には即位名(ネスウト・ビティ名 上下エジプト王名)が表記された。
[編集] 参考文献
- ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳『考古学から見た古代オリエント史』岩波書店、1983年
- 岸本通夫他、『世界の歴史2 古代オリエント』河出書房新社、1989年
- 高橋正男『年表 古代オリエント史』時事通信社、1993年
- 大貫良夫他『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』中央公論新社、1998年
- 前川和也他『岩波講座 世界歴史2』岩波書店、1998年
- 三笠宮崇仁『文明のあけぼの 古代オリエントの世界』集英社、2002年
- 初期王権編纂委員会『古代王権の誕生3 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編』角川書店、2003年