エジプト第1王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古代エジプトの王朝 |
王朝誕生前のエジプト |
エジプト原始王朝 |
エジプト初期王朝 |
第1 第2 |
エジプト古王国 |
第3 第4 第5 第6 |
エジプト第1中間期 |
第7 第8 第9 第10 |
エジプト中王国 |
第11 第12 |
エジプト第2中間期 |
第13 第14 第15 第16 第17 |
エジプト新王国 |
第18 第19 第20 |
エジプト第三中間期 |
第21 第22 第23 第24 第25 第26 |
エジプト末期王朝 |
第27 第28 第29 第30 第31 |
グレコ・ローマン時代 |
アレクサンドロス大王 |
プトレマイオス朝 |
属州エジプト |
エジプト第1王朝(えじぷとだいいちおうちょう、紀元前3100年頃? - 紀元前2890年頃?)は、古代エジプトにおいて史上初めて上エジプト(ナイル川上流域)と下エジプト(ナイル川下流域)を統一したとされている王朝。統一勢力であったかどうかは別として、第1王朝以前の王朝の存在も発見されているため、第1という番号は便宜的かつ慣習的なものである。この王朝の出現を以てエジプト初期王朝時代の始まりとされる。
目次 |
[編集] 歴史
ヘロドトス[1]やマネト[2]の記録によれば、エジプト第1王朝の初代王はメニ(希:メネス)であった。彼は上下エジプトを統合した後、その境界近くに新しい王都イネブ・ヘジ(後のメンフィス[3])を建設したという。ヘロドトスもマネトも、エジプト第1王朝よりも2000年以上も後の人物であり、その記録がそのまま史実を伝えるものとすることはできないが、後代のエジプト古代王朝の人々にメニ王から始まるエジプトの歴史が伝わっていたことは確実である。
アビュドス遺跡で発見された古代エジプトの王名を記した封泥によって得られるエジプト第1王朝の王は初代ナルメル王、2代アハ王、3代ジェル王と続き、メニ王の名は見られない。メニ王を実在の人物として、ナルメル王かアハ王、または他のいずれかの王と同一人物とする数々の研究があるが、現在までのところ定説はない。これらの中では特にメニ=ナルメル説とメニ=アハ説が有力である。メニ王をナルメル王に比定する説の根拠は、ナルメル王の化粧板(ナルメルのパレット)と呼ばれる同時代の出土物に、上エジプトの王ナルメルが下エジプトを征服し、その王位を得たという記録がある事であり、上下エジプトの統一や「最初の王」という点を重視するならばメニ王はナルメル王の事になる。一方でメニ王をアハ王に比定する説の根拠は、アハ王のホルス名(王名)と並んでネブティ名(二女神名)「メン」が記された象牙製ラベルが発見されていることと、エジプト第1王朝の大規模墳墓建設が始まるのが確認されるのがアハ王の治世であることである。類似した名前やメンフィスの建設に象徴される建築事業を重視するならば、メニ王はアハ王であるということになる。両者を包括する説として、メニ王の伝説はエジプト第1王朝やエジプト第2王朝の複数の王の業績が集約されて生まれたものであるとする説もある。
比較的同時代に近い史料に基づいたエジプト第1王朝の歴史としては、上エジプトにあった王国の王であったナルメルは、下エジプトを征服してエジプトを統一し、リビアやパレスチナ方面[4]にまで遠征を行って武威を示した。ナルメルの跡を継いだアハ王はナイル川を上流に遡って第1瀑布近辺までを、第3代目のジェル王は更にナイル川を遡って第2瀑布近辺までを征服し、またシナイ半島を征服した。ジェル王によってシナイ半島にある銅山が王家の独占とされ、王権が著しく強化された。第4代目ジェト王の治世は記録が無くわかっていない。第5代デン王の治世には上下エジプトを統べる王としての王権理念が確立された。彼の時代に官僚制の整備や徴税制度も確立された。デン王以後の第1王朝の記録は乏しく、第1王朝がどのようにして滅亡したのかはわかっていない。おそらく紀元前29世紀初頭頃、またはその前後の時代にエジプトの支配権はエジプト第2王朝に移った。
[編集] 王権
エジプト第1王朝の国制についての記録は極めて乏しくほとんど何もわかっていない。王権については王号や図像史料などから、重要な考察がなされている。ナルメル王の化粧板の表面には、隼の姿をしたホルス神や山犬の姿をしたウプウハウト神などともに敵(アジア人)と戦うナルメル王の姿が刻まれている。裏面には上エジプトの王冠を被ったナルメル王が付け髭と牛の尻尾を付けた姿で、敵を棍棒で打ち据えようとする様が描かれている。この付け髭と牛の尻尾は以降の古代エジプト歴代王朝の王権を考察する上で重要な要素となっていくものであるが、その最も最初期の例の一つである。ただし、王の付け髭などの習慣がどの時期に始まったのか正確には知られていない。
デン王の時代になると、ホルス名(王名)、ネブティ名(二女神名)に並んで第3の名前、ネスウト・ビティ名(即位名)が用いられるようになった。これはエジプト第1王朝の王がネスウト(上エジプト王)とビティ(下エジプト王)を兼任する存在であることを象徴的に表すものであった。こうして後代のエジプト歴代王朝の王権の原型が形成された。
[編集] 歴代王
[編集] マネトによる記録
- メネス(カバにさらわれて死んだ)
- アトティス(メンフィスに宮殿を建てた。医術の心得があり、彼の労作が現存している[5])
- ケンケネス
- ウエネフェス(彼はココメの近郊にピラミッドを複数建てた)
- ウサファイス
- ミエビス
- セメンプセス
- ビエネケス
[編集] アビュドス出土の封泥の記録
[編集] 注
- ↑ 紀元前5世紀のギリシアの歴史家。
- ↑ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
- ↑ イネブ・ヘジは白い壁という意味で、メンフィスの古い名である。メンフィスと言う名は、近郊のサッカラにあるペピ1世のメンネフェル・ペピと呼ばれたピラミッドの呼び名が都市の名前(メンネフェル)として用いられたことから普及した名である。
- ↑ パレスチナへの遠征ははっきりした記録が残っているわけではない。ナルメル王の化粧板にアジア人との戦いの様が描かれていることや、アジア(パレスチナ)に由来すると思われる図像があることから推定されるものであり、否定視する意見もある。
- ↑ プトレマイオス朝時代のこと。2006年現在には現存しない。