イツァーク・パールマン
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イツァーク・パールマン(Itzhak Perlman、1945年8月31日 - )は、イスラエルのテル・アヴィヴ生まれのヴァイオリン奏者。20世紀における最も偉大なヴァイオリニストの一人と評価されており、また知名度においても最も秀でたヴァイオリニストの一人である。演奏においてのみならず、教育者としても高く評価されている。
[編集] 略歴
1945年8月31日、イスラエルのテル・アヴィヴに生まれる。両親は、ポーランドから移住したユダヤ系の理髪師で、ことさら音楽の愛好家ではなかったらしい。3歳の時、ラジオでヴァイオリンの演奏を聴いて感動し、ヴァイオリンに強い憧れを抱く。最初はおもちゃのヴァイオリンを遊び半分で弾いていたが、間もなく正式のレッスンを受けるようになる。
しかし、4歳3ヶ月のとき、小児麻痺にかかり、下半身が不自由になってしまう。それでもヴァイオリニストになる夢をあきらめず、幼少ながらシュミット高等学校でヴァイオリンのレッスンを続ける。その後、アメリカ=イスラエル文化財団の奨学金を受けて、テル・アヴィヴ音楽院でリヴカ・ゴルトガルトに師事し、早くも10歳で最初のリサイタルを開いた。これを機にイェルサレム放送管弦楽団の演奏会に招かれ、ラジオにも出演する。
テル・アヴィヴ音楽院卒業後の1958年、13歳の時、アメリカの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」のタレント・コンクールに応募して栄冠を勝ち取り、翌1959年2月に出演、リムスキー=コルサコフの「熊蜂の飛行」やヴィエニャフスキの「華麗なるポロネーズ」を弾いて大絶賛を浴びる。
このテレビ出演をきっかけに、アメリカに留まることを決意、アイザック・スターンの強い推薦を得てジュリアード音楽院に入学、名教師イヴァン・ガラミアンとドロシー・ディレイのもとで学ぶ。
その後、アメリカでの正式デビューは、1963年3月5日、17歳の時にカーネギー・ホールに於いて弾いたヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第1番であった。1964年8月にはレーヴェントリット国際コンクールで優勝する。18歳での優勝は史上最年少であった。その後はアメリカのメジャー・オーケストラから共演依頼が殺到し、アメリカ全土の主要都市でリサイタルを開いて絶賛を浴びる。1965年には7年ぶりに故国イスラエルに帰り歓迎を受ける。1967年から1968年にはヨーロッパの主要都市でデビューを果たし、その評価は国際的なものとなる。なお初来日は1974年であった。
1966年から始めたレコーディングではグラミー賞15回をはじめとしてエミー賞を4回受賞するなどほとんどのレコード賞を獲得している。
また、1993年には映画「シンドラーのリスト」に出演して話題になった。1998年からはジュリアード音楽院の教授として教育活動にも従事している。近年は指揮活動にも取り組み、弾き振りのみならずデトロイト交響楽団の首席客員指揮者を務めるほか、セントルイス交響楽団で音楽顧問を務めている。
1986年には長年の活動を評価され、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領から「モデル・オブ・リバティ」、2000年にはクリントン大統領から「ナショナル・モデル・オブ・アーツ」の称号が贈られている。
[編集] 演奏
パールマンの演奏の魅力は、ヴァイオリンという楽器の魅力をかつて無く徹底的に追求したところにある。全ての音程は完璧に制御され、徹底的な美音、暖かで繊細・豊麗な歌い回しに加え、完璧な技巧はヤッシャ・ハイフェッツ以降最高と評価されることもある。また好不調無くどんな演奏でも聴衆と喜びを分かち合うことのできる、極めて質の高いエンターテイナーでもある。
レパートリーは極めて広く、協奏曲・ソナタのみならず、フリッツ・クライスラーなどの小品集でも高い評価を受ける。また純粋クラシック音楽以外の分野も手がけ、ユダヤの民族音楽を歌ったものやスコット・ジョプリンのラグタイム集などの演奏でも魅力ある演奏を残すなど、音楽に対するオープンな姿勢が魅力でもある。