アロハシャツ
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アロハシャツ (Aloha shirt) とは、パイナップルやフラを踊る女性などのトロピカルなモチーフや、金魚、虎などのオリエンタルなモチーフ(和柄と呼ぶ)を華やかでカラフルな色彩で染め上げた、シルクやレーヨン、ポリエステル、綿などの生地を用いて作られる開襟シャツ。
「アロハシャツ」の呼称が商標登録されていたために、一般名詞として「ハワイアンシャツ」と呼ぶこともある。1930年代中頃からリゾート地として急速な発展を始めたハワイで、リゾートウェアあるいはハワイみやげとして作られるようになった。
"Aloha (アロハ)" (ハワイ語:好意、愛情、慈悲、優しい気持ち、思いやり、挨拶などの意味)
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[編集] 起源
その起源については諸説ある;
19世紀終盤−20世紀初頭、農業に従事していた日本移民は、「パラカ(ヨーロッパの船員たちが着ていた上着)」と云う開襟シャツが日本の木綿絣に似ていることから好んで愛用していたが、持参品であった着物の再利用の際に、パカラに仕立てたのが起源ではないかと云われている
『1930年代初頭には、アロハシャツとは「派手な和柄の開襟シャツ」を意味していた』(出典「アロハスタイル」ワールド・ムック261)。
「アロハシャツ」という呼称は、1935年6月28日、ホノルルの服飾店「ムサシヤ・ショーテン・Ltd.(創業時の名は「ムサシヤ」、1904年、最初の官約移民のひとりである、宮本長太郎氏(東京出身)により創業、日本の反物を使ってシャツを作っていた、1915年, 長太郎が他界、日本で暮らしていた長男, 孝一郎がハワイに帰国、店名を『ムサシヤ・ショーテン』(日本語名:武蔵屋呉服店)と改めて経営)」が「Honolulu Advertiser」に掲出した広告のなかに見ることが出来る。またエラリー・J・チャンという中国系商人が、1936年に「アロハスポーツウェア」、翌1937年に「アロハシャツ」の商標登録を申請し、20年間の独占利用を認められている。(「THE ALOHA SHIRT ハワイのスピリット、アロハシャツのすべて」デール・ホープ著、による)
当初はシルク、1950年代まではレーヨンが主流であったが、1960年代に入ってポリエステルが登場し、シルクやレーヨンに取って代わる(近年のヴィンテージブームによって、現在ではシルクやレーヨンなどの素材も再び復活している)。ハワイには、アロハシャツに用いられるような精緻でカラフルな生地を染める事ができるような染織工場が無かったので、ほとんどの生地はアメリカ本土あるいは日本から輸入された。特に日本には京都を中心に高度な技術を持った染工所が数多く集積し、安価で品質の良い生地を小ロットで大量に供給することが出来たので(第二次世界大戦の)戦前、戦後を通して、多くのアロハシャツの生地が日本で作られた。
1950年頃にはアロハシャツ生産を主体とするアパレル産業が、砂糖、パイナップルに次いでハワイにおける3番目の産業となり、アロハシャツの黄金時代を迎える。1940年代中頃からは産業としての発展を背景に、1947年に始まる「アロハウィーク」、1948年の「アロハウェンズデー」、1956年に始まる「アロハフライデー」などの官、民によるさまざまな利用促進キャンペーンが試みられた。
アロハウィーク:ハワイの伝統的なお祭りを拡大したイベント。アロハウィークの期間中はさまざまな職場でアロハシャツで働くことが認められた。
アロハウェンズデー:シャツメーカーや小売店によるキャンペーン。水曜日にはアロハシャツを着て働くことが奨励された。
アロハフライデー:ハワイアンファッション組合の提唱によるキャンペーンで、現在に至るまでカジュアルウェアデーとして継承されている。
1960年代には洗濯が簡単で丈夫なポリエステルの登場なども追い風に、さまざまな生活シーンにおけるアロハシャツ着用が加速、それにともない伝統的な開襟シャツ以外にもプルオーバーのものやボタンダウンのものなども作られるようになる。(生地を裏返しに縫製したアロハシャツなどもこの頃に登場し、その控えめな色合いは現在でもオフィスワーカーなどに好まれている)
[編集] 現在
このような、長い時間をかけた様々な取り組みを通して、アロハシャツはオフィスやレストランなどでも着用が許される「ハワイにおける男性の正装」として認知されるようになった。現在では単なるリゾートウェアというよりはむしろハワイの民族衣装のように扱われている。(逆に現在では夏のカジュアルな服装としてはTシャツのほうが一般的である。)