アッシュールバニパル
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アッシュールバニパル(Ashurbanipal、在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)は新アッシリア王国時代のアッシリアの王である。彼自身がアッシリア史上最後の偉大な征服者であったのみならず古代オリエントの研究は彼が残した図書館史料の解読に大きく依存しており、古代史を語る上で欠く事のできない人物である。アッカド語ではアッシュール・バニ・アプリ(Ashur bani apli)と記述され、「アッシュール神は後継者を生み出した」の意味である。
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[編集] 来歴
[編集] 即位前~エジプト遠征
アッシリア王エサルハドンの息子として生まれた。兄のシン・イディナ・アパラが先に死去したため、皇太子となった。そしてエサルハドンの生前の取り決めにより、アッシリア王位にアッシュールバニパルが、バビロニア王位に兄のシャマシュ・シュム・ウキンが即位し、アッシリア王を上位とする事が定められていた。弟である彼が上位のアッシリア王になったのには、エサルハドンの生母ナキア(ザクトゥ)の政治工作があったといわれている。
紀元前669年にエサルハドンが死去すると、翌年アッシリア王位についた。彼は父が行っていたエジプト遠征を継続し、紀元前667年にエジプトのメンフィスを再び陥落させた。エジプト王タハルカは消息不明となり、エジプトを支配下に置く事に成功した。しかしエジプトではタハルカの後に続いてタアトアメンの反乱が起きたため、第二回のエジプト遠征を行って紀元前663年には遂にエジプトの首都テーベを陥落させた。その後彼はエジプトの統治をネコに任せた。また、リュディアの王ギゲスが、キンメリア人の侵入に対して援軍を要請してきたためにこれを助けてリュディアに兵を送ったが、後にギゲス王はエジプトのプサメティコス(ネコの息子)と結んでアッシリアに敵対した。これによって紀元前656年頃にはエジプトの支配を喪失することになる。
[編集] 兄弟戦争
紀元前662年にはエラム王テウマンと戦ってこれを破り、エラムを属国とした。テウマンの首は、祝宴の席で庭の木に吊るされたという。しかしエラムはなおも反アッシリア的であり続けた。
かねてよりバビロニア王たる自分の従属的地位に不満を持っていた兄シャマシュ・シュム・ウキンは当初は父エサルハドンとの誓約に従っていたかに見えたが、紀元前652年遂に反旗を翻した。アッシリアに反感を持つエラムや海の国の首長ナブー・ベール・シュマティ等の支援を受けてのものであった。反乱の発生直前にアッシュールバニパルはこれを察知していたらしく、バビロン市へ向けて彼が発した手紙の写しが現存している。
- バビロン市の者への王の言葉…この非兄弟があなたがたに語った風(虚言)を私も全て聞いた。しかしそれは風に過ぎない。彼を信じてはいけない…
この争いではアッシュールバニパルは南部バビロニアの諸都市に内部工作をかけてシャマシュ・シュム・ウキンから離反させる事に成功した。アッシュールバニパルは紀元前650年年までにバビロニアの大半の都市を制圧し、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロンに篭城した。バビロンは2年間に渡ってアッシュールバニパル軍の包囲に持ちこたえたが紀元前648年陥落し、シャマシュ・シュム・ウキンも炎上する宮殿の中で死亡した。以後アッシュールバニパルはバビロニアに傀儡王カンダラヌを立ててこれを支配した。ナブー・ベール・シュマティはなおアッシリアに敵対し、大いにこれを苛立たせたが到底アッシリア軍を跳ね返すには到らず海の国から逃亡した。
※カンダラヌに関しては、アッシュールバニパルと同一人物であり、カンダラヌとはバビロニア王としてのアッシュールバニパルの即位名であるという説がある。またアッシュールバニパルの別の兄弟であるという説もある。
[編集] エラム遠征
ナブー・ベール・シュマティがエラムへ逃げ込んだ事や、エラム自体も反乱に手を貸した事などから、アッシュールバニパルは再びエラムとの戦いに乗り出した。アッシリア軍はここで大規模な勝利を収め、エラムの首都スサを占領、これを徹底的に破壊した。この結果シュメール時代以来メソポタミアに影響力を振るったエラムはその有力国としての地位を完全に失った。ナブー・ベール・シュマティは従者によって殺され、彼の死体は塩漬けにされてニネヴェに送られた。この勝利によって、アッシリアの威光はイラン高原にまで広まり、多くの王がアッシリアに貢納を行った。そういった王の中には未だ小国であったペルシアの王キュロス1世もいた。
[編集] 末期
アッシュールバニパル治世の後半は記録が乏しい。大規模な遠征は無かったと言われているが、アッシリアの国力は衰退していったと考えられる。その原因については明らかではない。死後王位継承を巡ってアッシリアの政局は混乱に陥った。アッシュール・エティル・イラニが王位についたが、短期間に王位が交代、まもなくアッシリア自体も滅亡する事になる。なお記録の減少についてはアッシュールバニパルが首都を遷したためであるとする説もある。
[編集] 文化事業
アッシュールバニパルの治世は歴代アッシリア王に比して遠征が少なく、アッシュールバニパルに関する記録も、建築や研究、文芸に関する記録が多いので知られる。アッシュールバニパルは、歴代アッシリア王の中で最も教養豊かな王と言われ、シュメール語、アッカド語の読み書きができた。彼自身それを誇りとしていたことを示す文書も残されている。
「あらゆる書記の神ナブーは我に彼の知恵、即ち粘土板に文字を記す完全なる技術を与えたもうた。我は賢明な神アダパの啓示、即ち書法の秘伝を受けた。…我は博学の師について天地のことを考えた。…我は透かし見ることのできない掛け算や割り算の問題を解いた。…我は難解なアッカド文字を読める。アッカド語を覆い隠しているシュメール語の精緻な文書を読める。謎めいた大洪水以前の石碑の文も読める。…」
この好学のアッシリア王は自らのライオン狩りの姿を写した浮き彫りにさえ帯に葦のペンを挟んだ姿で表現させた。
[編集] ニネヴェ図書館
アッシュールバニパル王は文書収集に熱中した王として知られる。彼はアッシリア全土に書記を派遣し神話・医学・宗教・言語などの学術書、果てには商業証書や一般人の手紙までを集めさせた。全国の蔵書家に文書の供出を命じ、複写させた(しかも原本の返却をしなかった)。これが、オリエント世界の知識の集大成とも言える図書館を建設へと繋がった。現在アッシュールバニパルの図書館、またはニネヴェ図書館として知られている。最も残存率の高いギルガメシュ叙事詩の版本もこの図書館に保存されていた。また、こうした文書収集に関するアッシュールバニパルの命令書も保存されていた。
バビロンに駐在する臣下シャドゥーヌに対する命令書
「…汝が余の手紙を見たら、シュマ、彼の弟のベール・エティル、アプラとボルシッパの書記達、そして汝の知人達の家にある全ての文書と、エ・ジダ神殿にある全ての文書を持ってくるように。アッシリアに写本の無い貴重な文書を探して持ってくるように。…汝は集めた文書を倉庫に保管しておき、何人にも決して渡してはならない。他に王宮に相応しい何らかの文書を見つけたならば、それもこちらに持ってくるように。」
ニネヴェ図書館の母体となったのは、アッシュールバニパルの臣下であったナブー・ズクプ・ケーヌの蔵書であった。代々続く学者の家に生まれた彼は、家に伝わっていた蔵書をアッシュールバニパルに献上し、アッシュールバニパルはこれらの文書を母体に図書館を建設した。
この時集められた楔形文字による25357点の粘土板は現在、その大半が大英博物館に保管されてる。古代メソポタミアの研究において、この図書館の文書群は圧倒的な意味を持つ。ジョージ・スミスらによる洪水伝説の発見は聖書研究に新たな局面をもたらした。
[編集] 内臓占い
父王エサルハドンの時代からアッシュールバニパルの時代にかけて、生贄の動物から内臓を取り出してその状態によって未来を占う内臓占いが多数行われた。この占いに関する文書が数百点残されており、しかも王が重大局面に差し掛かった時その吉凶を占った記録であるために当時の政治情勢を知る上で重要な史料となる。