高野攘治
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高野 攘治(たかの じょうじ、1958年6月23日 - )は、山口県出身のプロレスラー。
リングネーム「ジョージ高野」 や、覆面レスラー「ザ・コブラ」としての活躍で知られる。
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[編集] 経歴
父は岩国基地に所属していたアメリカ海兵隊員(隊内のボクシング王者にもなっている)。大相撲から転じて1976年8月に新日本プロレスに入団後、TV特撮番組『プロレスの星 アステカイザー』に出演。菅原文太の弟子として俳優を本格的にやろうとしたこともあったが、新日に復帰。抜群の運動能力とルックスで若手注目No.1の選手だった。その人気に、前田日明は強く嫉妬したと言われる。
なお、前田日明や平田淳二(現平田淳嗣)らと同期扱いをされる事が多いが実際は佐山サトルと同期であり、デビュー戦の相手も彼である。これは、上記の俳優転進~新日復帰の経緯によるブランクのためである。
覆面レスラーのザ・コブラとしてNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得後、ヘビー級に転向してスーパー・ストロング・マシンと烈風隊を結成し、IWGPタッグ王座を獲得。因みに烈風隊というユニット名は、公募ではなくジョージ自らの発案である。
1990年にSWSに移籍、弟で全日本プロレスに移籍していた高野俊二(現高野拳磁)とパライストラを結成するが、1992年に同団体が解散し、ケンドー・ナガサキ等とNOWを旗揚げする。しかしすぐに脱退、その後俊二とともにPWCを結成したものの、ジョージのみ離脱。自らFSRを設立しタイガーマスク(佐山サトル)との一騎打ちで旗揚げ戦を行なうも崩壊。今はザ・コブラのマスクを被りながらミニ団体で細々と活動している。
2001年のZERO-ONE旗揚げ年の第1回火祭りにも、かつての細身の身体とは見違える程増量したスーパーヘビーの身体で参戦し、同ブロックの田中将斗にリングアウト勝ちをするも、戦績は芳しくは無かった。
正統派のストロングスタイルで、アントニオ猪木らとも臆することなく挑んでいき、互角に戦ったファイティングスピリットは往年のレスリングファンの記憶に残る。ただ、「宇宙人」と呼ばれるほどの奇行の多さ、プロレスセンスの決定的な欠如が、彼の大成を阻んだ。
[編集] ザ・コブラ
ザ・コブラは初代タイガーマスクが突如引退を表明して新日本プロレスのリングを去ったため、その穴を埋めるべく用意された覆面レスラーである。カナダ・カルガリーマットでデビュー。
日本デビューは、1983年11月3日に蔵前国技館で行われたデイビーボーイ・スミス戦。『ワールドプロレスリング』では、日本デビュー以前から正体不明の謎のマスクマンとして紹介され、カナダからの帰国時には成田空港でマスク姿のザ・コブラに突撃インタビューをする等、Jr.ヘビー級選手としては異例の期待の高さが感じられた。当初は、初代タイガーマスク並みの活躍を期待しての待遇であった。しかし、一部マスコミがザ・コブラ誕生の経緯を報じており、少なからずのプロレスファンにとっては正体は周知の事実であった。
この試合は、ザ・コブラが名だたる名覆面レスラーの格好をした人達に神輿に担がれて花道から入場したり、入場時にリングガウンの代りに白いタキシードを身にまといコーナーのトップからバック宙返りでリングインするスタイルの入場シーンもあり、試合開始前にスミスが「ザ・バンピート」なる覆面レスラーのマスクを自ら脱ぎ捨て正体を明かしたり、一風変わった出だしであった。 試合が始まってからも噛み合わない場面が目立ち、タイガーマスクばりの空中殺法(トップロープ越しのプランチャ)に大失敗して鉄柵とイスに激突している。プロレスファンの間では「場外カウントアウト」になっていたのだが、レフェリーが配慮して負けにしなかったといわれている。ちなみにその時のシーンはTVではカットされている。
試合には勝ったものの初代タイガーマスク対ダイナマイト・キッド戦の再来を期待していたファンや関係者を落胆させた。プロレス界に於いて、いかに出だしのインパクトが重要であるかを示した格好となってしまった。また、プランチャの失敗からヒザを痛め、この後長期欠場(海外に戻ったというギミック)をしている。
デビュー戦で期待以上のインパクトを残した初代タイガーマスクと、期待はずれに終わったザ・コブラは常に比較され、その後のレスラー人生にも影響を与えた。
当時は新日本のジュニア戦線が手薄な時期で、いいライバルが不在の状況だったが、越中詩郎や高田伸彦(現高田延彦)の台頭でIWGPジュニア・ヘビー級王座が創設。1986年2月6日に両国国技館で越中と初代チャンピオンの座をかけて対戦するが、あえなく敗退。越中を破って第2代チャンピオンとなった高田とも同年6月17日に愛知県体育館で対戦したが、両者リングアウトでタイトル獲得はならなかった。その後、越中と高田はタイトルを巡って名勝負を繰り広げ、この戦線に山崎一夫・小林邦昭・馳浩らが加わり、1989年4月24日にデビューした獣神ライガー(現獣神サンダー・ライガー)へと引き継がれたが、ザ・コブラはこの流れに乗り切る事が出来ず、自らマスクを脱いでジョージ高野として再起を図ることになった。
ザ・コブラ時代の必殺技として「スコードロン・サンダー」という技があることがプロレスマスコミによって報道されていたが、その完成形は一度も披露されなかった(未完成形はトライしている)。
ザ・コブラは日本人離れした体格と褐色の肌を持ち、ファイトスタイルもスケールの大きい躍動感があり、スターとしての素質を充分持ち合わせた覆面レスラーだった。しかし、185cmを遥かに超えるジュニア戦士であったため、ステロイドでパンプアップしたキッドらに比べて細く見劣りしたこと、そして何よりも初代タイガーマスクと比較されたため、過小評価されてしまった不運の覆面レスラーであった。彼以外にも、三沢らタイガーマスクの継承者は、初代タイガーマスクの幻影に悩まされることになる。
[編集] リングネーム
現在、過去に用いたことがあるリングネーム
- ジョージ高野
- ザ・コブラ
[編集] 逸話
端正な顔立ちだが鼻骨がない。若手時代に「クラッシャー」と呼ばれた前田日明にキックで砕かれ、骨を抜いてしまった。昔の新日本プロレスの激しさを象徴する逸話となっており、押すとグニャグニャしているためインタビューなどで記者を驚かせる。
[編集] 獲得タイトル
- IWGPタッグ王座
- NWA世界ジュニアヘビー級王座
- WWF(現WWE)Jrヘビー級
- 英連邦ミッドヘビー級王座