萬代橋
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萬代橋(ばんだいばし)は、新潟県新潟市の信濃川に架かる国道7号の道路橋梁。現橋は1929年竣工。
2004年7月、国道の橋梁としては全国で2例目となる、国の重要文化財に指定された。
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[編集] 概要
現橋は6つのアーチを連ねる鉄筋コンクリート橋で、側面には御影石の化粧板を施す。全長306.9m、幅21.9m。道路4車線、両端に歩道を備える。
新潟地震(1964年)の激震にも耐えて落橋しなかった逸話を持ち、堅牢な名橋として知られる。昭和初期における大規模なコンクリートアーチ橋の貴重な現存例であり、建設技術・デザインの両面から現在でも高く評価されている。
今日では新潟市のシンボルとしてのイメージが広く定着し、新潟市の代表的な観光地・景勝地となった。夜には橋脚のライトアップも行われる。
現橋の架橋75周年を迎えた2004年4月、国の重要文化財指定の答申を受けたのを機に、漢字表記を戦後に定着していた「万代橋」から、建設時よりの橋名板表記である「萬代橋」に復した。これに伴い同年春から夏に掛けて、架橋当初の姿に復すリニューアル工事が実施された。
[編集] 地理
信濃川の河口から数えて2番目に位置する橋であり、上流側には八千代橋が、下流側には柳都大橋がそれぞれ架かっている。
左岸(北西側)の下大川前通(しもおおかわまえどおり)及び川端町(かわばたちょう)地内、下大川前通と交差する万代橋西詰交差点と、右岸(南東側)の万代地内、東港線と交差する東港線十字路との間に架かる。
新潟市中心部のメインストリートである柾谷小路と、新潟駅万代口に通じる萬代橋通り・東大通とを結ぶ幹線橋梁であり、国道7号(8号、17号、113号等含む)などの経路となっている。
萬代橋は架橋以来、長きにわたり、信濃川最下流に架かる橋だった。市内中心部にあるため自動車・歩行者とも通行量が非常に多く、近年は、しばしば発生する渋滞に苛まされていた。
2002年5月19日、下流部に柳都大橋(りゅうとおおはし)、河口部に新潟みなとトンネルがそれぞれ開通したことで、萬代橋の交通量はやや減少した。それでも1日あたり46,500台(2002年6月時点)の自動車交通量は、信濃川に架かる新潟市内の一般道の橋ではなお最大である。
右岸側はかつて流作場(りゅうさくば)という地名だったが、住居表示により「万代」という地名が与えられ(八千代橋寄りの上流側は「八千代」となった)、この万代・八千代地区に跨って新潟交通が開発した商業地には「万代シテイ」という愛称が付いた。また1982年には新潟駅が南口の開設に際して、旧来の北側出入口に「万代口」という愛称を与えた。いずれも、この橋に因んで命名されているものである。
[編集] 歴史
[編集] 初代
1886年竣工。木造橋。新潟市の信濃川に架橋された初めての橋である。当初は萬代橋(よろずよばし)と訓読したが、のち音読の「ばんだいばし」に転訛した。
新潟市の市街地と沼垂町(1914年新潟市に合併)との間の信濃川には橋が無く、古くから渡船によって連絡されていたが著しく不便であるため、新潟日日新聞社長の内山信太郎、第四銀行頭取の八木朋直らによって民営での架橋が計画され、1886年2月に着工、同年11月に開通した。工事費約30,700円(当時)。当時は信濃川の川幅が現在より遥かに広かったため、橋梁部は現在の礎町通から流作場五差路近くにまで及んだ。長さは782m(現在の2.5倍以上)あり、開通時は日本最長であった。幅は7.2m。
当初、民営のため通行料を徴収したが利用者からは不評で、維持にも経費がかかることから、1900年に新潟県が買収、県道となって無料化された。1908年3月、新潟市で起きた大火(1,770戸焼失)の際、避難者の荷物から引火して橋梁部の半分以上が焼失した。
[編集] 2代目
1909年12月竣工。萬代橋は当時、既に新潟市の交通上重要な橋となっていたことから、新潟県では直ちに初代橋梁の焼け残った基礎杭を使用して再架橋した。2代目萬代橋は初代とほぼ同等規模の木造橋で、橋長782m、幅員7.9m。総工費は約126,000円を要した。
この初代及び2代目の萬代橋を支えていた基礎杭が1996年6月、万代側の地下道「万代クロッシング」の工事に際して出土した。基礎杭跡は同地下道内のフリースペースに保存され、現橋のモックアップ(模型)と共に展示されている。
[編集] 3代目(現橋)
1929年8月竣工。2代目の老朽化のため、隣に鉄筋コンクリート橋を建設。
[編集] 架け替えに至るまで
信濃川は低湿な新潟平野に大きな水害をもたらすことから、江戸時代から幾度も分水路の開削が計画されていたが、1896年の大水害をきっかけに実現される運びとなり、内務省直轄の国家事業として1909年に工事に着手した。この困難な大工事は1922年に完成し、寺泊町に抜ける現在の大河津分水が完成した。
大河津分水の完成により、分水から下流の信濃川の水量は著しく減少したため、新潟市内の川幅を約3分の1に改修する工事(770mから270mに縮小)が行われた。
この頃2代目萬代橋は老朽化が進み、本格的な自動車交通への対応が困難になりつつあった。当時は日本の架橋技術が大幅に進歩した時期で、萬代橋の永久橋化実現に必要な技術が得られるようになっていた。そこで信濃川の幅員縮小を機に、架け替えが行われることになった。
240万円(当時)という建設費は、当時の新潟県の年間予算1,139万円に比しても非常な巨額であったが、費用の一部は川を埋め立てた土地の売却代金で補い、他は県債や国の補助金などを財源とした。
[編集] 設計
建設は新潟県の県営事業であったが、橋の全体設計は関東大震災後に隅田川への架橋工事を多数手掛けた内務省復興局に委託され、橋梁技術者の福田武雄と建築家の山田守が実際の設計を担った。文献によっては東京帝国大学教授で復興局設計課長の田中豊が設計したとする記述もあるが、実際には後輩格にあたる福田に設計を一任しており、田中は監修者としての立場に留まる。
福田武雄(1902~1981 のち東京大学教授・土木学会会長)は1925年に東京帝国大学工学部を卒業して復興局入りした新進技術者であったが、1926年に手がけた萬代橋の設計において、早くも優れた技量を発揮した。
RC(鉄筋コンクリート)アーチ橋を採用したのは、関東大震災に際してアーチ橋の損傷が少なかったこと、また河口に近いため、鉄橋では潮風による錆が懸念されることによるものである。
橋自体は非常に緩い放物線を描いて僅かに中央で反り返っており、強度と美観を巧みに両立させた。橋脚を減らすため、当時の技術で許す限りのロングスパンアーチ6連構造としたが、全体のバランスを計算し、中央支間から順に42.4m、41.5m、39.0mと、端に行くにつれて僅かずつ小さくなっている。中央部のアーチが大きいのは、当時まだ盛んだった信濃川の河川交通を阻害しないことを配慮したためである。
福田は萬代橋の設計で、2,000円という当時としては多額の報酬を受け、これを資金にドイツ留学を果たしたという。彼はその後も日本における橋梁設計の第一人者として生涯活躍した。
[編集] ケーソン工法
1927年7月16日に起工式が執り行われ、現橋の架橋工事が着工。橋脚の基礎部には、当時の日本ではまだ例の少なかった空気潜函工法(ニューマチックケーソン工法)を用いることとなった。この工事では、初めて日本人のみの手によってケーソン工法が実施された。
ニューマチックケーソン工法はアメリカから導入された当時最新の技術で、関東大震災の復興時に招請された米国人技術者の指導により、隅田川に架かる永代橋の架橋工事に導入された。萬代橋架橋に当たっては、この技術指導を受けた技術者である、元震災復興局技師の正子重三らが招聘されている。
着工後、まず最初に巨大な機械設備が2ヶ月をかけて組み立てられ、潜函が川底に埋設された。その後架橋予定箇所には、鋼鉄製の巨大な筒が次々と打ち込まれ、周囲には足場が組まれた。この筒は地下の基礎工事の作業現場に通じていたもので、その最上部には「ロック(気閘)」と呼ばれる室が備えられていた。「ロック」は、地上の大気圧と、圧縮空気が送り込まれている地下との圧力差を調整する設備である。
当時のケーソン工法は過酷な人力掘削であった。しかし潜函夫に対しては潜函病対策の体調検査を受けさせるなど十分な配慮がなされ、工期中は数名の軽症者が出たのみで、犠牲者を出さずに済んだ。
こうして製作された、水面下の基礎地盤に達する高さ15.2m、幅7.9m(4~5階建てのビル相当)にも及ぶ巨大な基礎は、2箇所の橋台基礎と5箇所の橋脚基礎に用いられた。この堅固な基礎によって、萬代橋の高い耐震性が確保されたのである。
[編集] 風説
しかし、建設工事が行われた当時はまだケーソン工法が一般的でなかったため、新潟市民は実情を理解しないままに「恐ろしい作業現場」という誤ったイメージを抱くことになった。
作業員は毎朝、潜函上の筒の中から入ったきり、なかなか出て来なかった。詰所には診療所が設けられており、夕刻になると潜函夫らが人力車に乗って病院に向かう姿が見られた。これらは安全対策のために十分な検査に努めた故の措置であったが、市民はこれを遠巻きに見て重大事態であると誤解した。
やがて市内では「あの筒の底では、毎日何人もの人が死んでいる」「一度入ったら、二度と戻ってくることはできない」など、あらぬ風説が立ち始めた。工事は万全な安全対策を施しており、死亡事故も発生してはいなかったものの、この風説によって市民や関係者が動揺し、工事に支障を来すことが懸念された。
そこで工事指揮者の正子は、工事の実情を広く公開して誤解を解くため、地元新聞記者を潜函内の現場取材に招く策を採った。現場の状況が詳細に報道されたことにより、ほどなく風説は沈静化した。
[編集] 開通
こうして着工から2年の歳月を経て、1929年8月23日に3代目の現橋が開通した。
1925年に策定された「新潟市都市計画」には、萬代橋に路面電車を通す計画が盛り込まれていたため、当時としては破格の幅員が確保された。路面電車計画は、新潟電鉄線(のちの新潟交通電車線)を、新潟駅前まで延伸するというプランであったが、費用等の事情から実現しなかった。新潟交通は、戦後はトロリーバス計画に転換するなどして、1958年まで工事申請を更新し続けたものの、結局実現には至らなかった。
開通当時は、自動車の交通量がまだ少なかったこともあって、幅の広い堅牢なコンクリート橋であることに「新潟には分不相応な、豪華過ぎる橋」という批判もあったという。しかし、これらのゆとりある構造が後に効を奏し、架橋から70年以上を経た21世紀初頭の車社会においても、片側2車線の大動脈として機能するに至っている。
[編集] 万代橋事件
1948年8月23日、現在の「新潟まつり」の前身にあたる「川開き」の2日目、信濃川では花火大会が開かれ、萬代橋周辺も大いに賑わった。しかし午後8時55分頃、打ち上がり始めたスターマインを見ようと、観衆が一斉に下流側の欄干に殺到した。このため欄干が約40mに亘って落下、約100名の観衆が信濃川に転落して、死者11名、重軽傷者29名を出す大惨事となった(万代橋事件)。
この事故以降、新潟まつりでの花火大会の際には、萬代橋など信濃川の橋梁上で立ち止まっての見物は禁止されている。
[編集] 新潟地震
1964年6月16日午後1時2分(日本時間)に発生した新潟地震に際し、萬代橋は、深い基礎を伴った耐震設計の確かさを証明することになった。
地震によって、6月に上流部で開通したばかりの昭和大橋は落橋、62年に開通した八千代橋も著しく損傷した。これに対し、萬代橋は両岸部の地盤が約1.2m沈下し、取付部が破損したものの、橋梁部そのものは全体に約10cm沈降しただけで耐え抜いた。市内に架かる信濃川の橋梁で唯一、自動車の通行が可能だったことから、速やかに被災者救援の交通に供された。
既に架橋後30年以上を経た古橋である萬代橋の堅牢さは、被害を受けた当時の新潟市民に強い感銘を与えた。萬代橋への敬慕の念を抱く新潟市民がことに多いのは、この逸話に因る面も大きい。
とはいえ地震による随所のダメージは大きく、その後数年がかりで萬代橋の復旧工事が行われた。この間一時的に並行して仮橋を架けた時期もある。
[編集] ライトアップ
1985年、初代萬代橋の架橋から、数え年で100周年となったことを記念して、市民・県民の募金・寄付で橋のライトアップが実現した。現橋の架橋当初に設置されていた橋側灯(戦時中の鉄材供出により消滅)が、違った形ではあるものの復活を見ることになった。夜の水面に、春・夏は鮮やかな昼白色、秋・冬は暖かな淡いオレンジ色の光に照らし出される萬代橋は、夜の新潟の街を彩る風物詩となった(後年は機器の老朽化等の事情で、照明は通年オレンジ色だった)。
1989年8月、新潟まつりの「民謡流し」が初めて、柾谷小路北端の日銀前交差点から萬代橋を挟んで、東大通の東大通(明石通)交差点までの間で行われた。この年以降、民謡流しはこのコースで実施されている。
また1994年8月には、福岡県福岡市東区内に架かる国道3号の道路橋梁「名島橋」との間で兄弟橋締結調印式が行われた。名島橋は萬代橋と同じコンクリートアーチ橋で、萬代橋の架橋65周年、名島橋の架橋60周年を記念して縁組が行われたものである。
[編集] 重要文化財指定に至るまで
2003年、国は萬代橋の改修工事を検討する旨を発表した。萬代橋の欄干は高さ約850mmと低く、国の現行基準である1100mmを充足していなかった。歩行者・自転車など歩道部の利用者の安全性を考慮し、歩道部の補修と併せて、欄干高さも基準値に改良することを図ったものであった。
現橋の欄干高さは全体的なバランスや景観まで考慮してデザインされたものであり、この改修工事計画が公表されると、直後から「(欄干かさ上げによって)市民が慣れ親しんだ萬代橋の景観が損なわれる」と危惧する意見が市民から数多く寄せられた。
これを受け、国土交通省新潟国道事務所と新潟市は、市民を交え、「万代橋とにいがたのまちづくりを考えるワークショップ」で萬代橋を中心とした街づくり等について議論を図った。この改修計画の是非について討論を行った結果「基準値を満足しなくとも、市民の自己責任によって橋を利用する」という前提で『現状の高さを維持すべきである』とする結論を得た。
その後、この議論を機に結成された市民団体「万代橋ワークショップ」などが、萬代橋を重要文化財に指定することを目指して要請活動を始め、また新潟市長からも国へ要請が出されるなど、重要文化財指定への機運が徐々に高まっていった。
この結果、現橋の架橋75周年を迎えた2004年4月16日、そのデザインや技術力が評価されて、文化審議会から重要文化財に指定する答申が出された。正式指定は同年7月6日付である(官報号外第147号、文部科学省告示第120号)。一般国道の橋梁が重要文化財に指定されたのは日本橋(東京都中央区)に次いで全国で2例目、新潟県内の土木構造物が指定されたのは初のことであった。また重要文化財のうち、鉄筋コンクリートの構造物としては全国最大である。
[編集] 重文指定に伴う改装
重文指定に先立ち、国土交通省は、萬代橋を架橋当初の姿に(可能な限りの範囲で)復元する改修工事に着手した。歩道部の排水性舗装化とロードヒーティングの設置など路面の補修(歩道部のバリアフリー化を兼ねた工事)の他、街路灯が架橋当初と同型の意匠に交換された。更に老朽化したライトアップ用サーチライトに代わり、戦前に設置されていた10基の橋側灯が復活した(うち5基分の製作費については市民からの募金で賄われた)。
この改修完工に際し、8月21日には萬代橋の重要文化財指定を記念して「萬代橋誕生祭」を開催、75歳の誕生日と重文指定を祝った。
[編集] 関連項目
- 信濃川ウォーターシャトル
- 美川憲一(「新潟ブルース」で萬代橋を歌っている)
- 加古町・住吉町 (広島市中区) - 広島市の同名の橋「萬代橋」について記述。ただしこちらは「よろずよばし」と呼称。