若一光司
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若一 光司(わかいち こうじ、1950年10月16日 - )は、日本の作家。大阪府生まれ。大阪市立工芸高等学校美術科卒業。
高校在学中から大阪(信濃橋画廊)・東京(村松画廊)で個展を開催するなど、現代美術作家として活動。1969年の村松画廊での個展では、ハツカネズミの死体(実物)を透明アクリルで挟んでプレスした作品を展示するなどして、一部で注目された。また、1970年には松本雄吉らと共に劇団日本維新派(現在の劇団維新派)の結成に参加。日本維新派の命名も、若一によるとされている。
高校を1年留年(理由は不明)して卒業後、コピーライターやCFディレクターを経て、1973年に企画会社プランニング・インターナショナルを設立。代表取締役・クリエィティブディレクターとして、各種の商品開発や販売促進、広告の企画制作に従事。ストリッパーと知的障害の青年との愛を描いた『海に夜を重ねて』(河出書房新社)で1983年度の文藝賞を受賞してからは、作家活動に専念。同受賞作は中原俊監督により『メイク・アップ』のタイトルで映画化された(主演は烏丸せつこ)。
若一は70年代の早い時期からパレスチナ難民支援運動に関わり、中東や東南アジア諸国を往来。73年にはパレスチナ問題の先駆的な入門書といえる『イスラエルのアラブ人』(サブリ・ジェリス著)を奈良本英佑(現・法政大学教授)と共訳し、サイマル出版会から刊行している。数次にわたってレバノンやシリアのパレスチナ難民キャンプに滞在し、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)などとも密接に連携しながら難民支援活動を行っていたとされるが、その間の経緯について本人は多くを語っていない。
また、アジア各国の事情や人権問題に精通しており、朝日・毎日・産経の各新聞にアジアに関する連載ルポやコラムを執筆。人権分野ではとりわけ在日韓国朝鮮人問題と死刑問題に関して積極的に発言。徹底した死刑廃止論者の立場から、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演したり、死刑擁護派であるジャーナリストの大谷昭宏と、テレビ番組の中で何回となく激論をたたかわせたりしている。
1986年には咲くやこの花賞(大阪市文化芸術新進作家賞)を受賞。小説以外にノンフィクションや評論なども手がけ、趣味である化石研究に関しても3冊の著書がある。『最後の戦死者・陸軍一等兵小塚金七』(河出書房新社)、『ペラグラの指輪』(北宋社)、『我、自殺者の名において』『石が語る、恐竜が目覚める』(ともに徳間書店)、『アジアとふれあう街で』(ブレーンセンター)、『大阪が首都でありえた日』(三五館)、『自殺者』『自殺者の時代』(ともに幻冬舎文庫)など著書多数。
NHK総合テレビ『アジア・マンスリー』のキャスターを3年間務めるなどテレビ出演も多く、現在も朝日放送『おはようコールABC』『ムーブ!』などにレギュラー出演中。歯に衣着せぬ率直(ともすれば過激)な発言で知られる。NHK番組演出審議委員、テレビ大阪番組審議委員、豊中市文化専門委員、大阪府在日外国人問題有識者会議委員、アジア太平洋人権情報センター企画運営委員、豊中国際交流協会理事などを歴任していたが、2000年にすべての役職を辞任。99年からの3年間、大阪市立大学大学院の非常勤講師として異文化コミュニケーション論を担当。人権問題や国際理解の分野でも活発な言論活動を展開している。日本文芸家協会会員。