松平光長
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松平 光長(まつだいら みつなが、元和元年11月29日(1616年1月18日) - 宝永4年11月17日(1707年12月10日)は江戸時代の大名。結城秀康の孫で、松平忠直の子。徳川家康の曾孫に当たる。生母は徳川秀忠の女・勝姫 (天崇院)。越後高田藩主。幼名:仙千代。官位は従三位右近衛権中将。
嫡子は綱賢(幼名・徳千代)は正室である毛利秀就の娘との間の子で左近衛権少将にまで昇るが、延宝2年1月30日に42歳で没して子がなかった。そこで甥にあたる永見万徳丸(忠直の庶子・永見長頼の子)を養子として迎えて綱国と名乗る。ところが、この縁組の過程を巡って重臣たちの争いが激化して、いわゆる越後高田騒動に発展、将軍徳川綱吉の怒りを買って改易となり、光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩に配流された。
元禄11年(1698年)、光長は松平宣富を養子に迎えて美作国津山藩主として家名再興を許される。貞享4年(1687年)、綱国とともに召還される(綱国は宝永5年に出家して享保20年3月5日に74歳で死去)。幕府からは津山藩とは別に毎年3万俵が与えられた。その後は静かな余生を送り93歳の長寿を全うした。
法名:慧照院殿前越州太守従三位羽林中郎開心一法大居士 墓所:東京都港区虎ノ門の光明山天徳寺。