第一次頂上作戦
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第一次頂上作戦(だいいちじちょうじょうさくせん)とは、1964年2月から1969年4月に掛けて、警察庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、特に暴力団のトップ・最高幹部の逮捕と、 組織の解体を目的として実施した一連の作戦。 頂上作戦と呼ばれるものには、他に第二次頂上作戦(1971年~1972年)と第三次頂上作戦(1975年~1978年)がある。
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[編集] 時代背景
1960年代に入ると暴力団同士の抗争が激化し(1960年の大阪・明友会事件、1963年の広島抗争等)、市民生活に脅威を与えるようになってきていたため、政府(池田勇人内閣)は1961年に「暴力団取締対策要綱」を閣議決定した。 また1964年10月に東京オリンピックの開催を控えており、当局は更なる治安強化を図る必要に迫られていた。 このような背景から、暴力団のトップ逮捕と組織の解散を目的とした第一次頂上作戦は立案された。
[編集] 全国的な成果
賭博や暴力行為を徹底的に立件した結果、1965年に錦政会、北星会、本多会、住吉会、松葉会が解散に追い込まれた。 怒濤の取り締まりは続き、1966年には日本国粋会、東声会、1967年には極東愛桜連合会が解散に追い込まれた註1。
そのような取り締まりが全国的に成果を挙げる中で、全国最大の組織である三代目山口組に対しては 当初十分な成果が挙げられなかった。 山口組に関しては立件の対象となる賭博、暴力行為が無かったからである。 そこで1966年から1969年までの第一次頂上作戦の後半は、山口組にターゲットを絞って 実施された。
[編集] 山口組に対する第一次頂上作戦
山口組に対する十分な成果が上げられない中、以下の事案をきっかけに事態は展開した。 1965年、山口組関連企業の神戸生コン運輸、神戸生コン工業の隣接地で台風によるドラム缶流失があり、両関連企業は操業を停止するなど被害を受けた。 その後それによって生じた損害を相手会社に賠償させたが、この際に恐喝があったとして、1966年4年19日に山口組最高幹部の一人であり両企業の役員にも就いていた舎弟・岡 精義を逮捕した。
岡は4月25日に恐喝を自供し、山口組を脱退した。 岡が自供したことに衝撃を受けた山口組では、組長・田岡一雄の指示で重要な収益源である港湾関連事業の山口組からの切り離しを決定した。 これを受けて5月上旬には20人近くの舎弟・若衆が一斉に脱退した。
当局は更に山口組の切り崩し対策を強化した。 6月2日、「広域暴力団山口組幹部による企業暴力事件捜査本部」を兵庫県警内に設置し、本部長を 暴力団対策で実績がある金堀一男とする人事を発表した。 金堀は、新聞紙上で「山口組を解散させ、病床の田岡一雄を刑務所へ送り込む」と表明し 取り締まり強化の姿勢を鮮明に打ち出した。 この方針に対抗するように田岡は「山口組は絶対に解散しない」と対決姿勢を取った。
翌7月に若頭・地道行雄(地道組組長)を三宮地下街(さんちかタウン)工事の警備に関わる恐喝容疑で逮捕し、厳しく追及。 ついに地道は田岡の関与を供述した。 田岡の元へ当局の手が及ぶこととなったが、心臓病の悪化により臨床尋問、家宅捜索、書類送検までは出来ても、 身柄を拘束することは出来なかった。
[編集] 第一次頂上作戦の終結
田岡を刑務所に入れることは出来なかったものの、岡、地道の他、舎弟頭・松本一美(松本組組長)や吉川組組長・吉川勇次、山健組組長・山本健一、山広組組長・山本 広ら複数の若頭補佐をも逮捕するに至った。 1969年4月には山口組の有力2次団体である柳川組を解散に追い込み、これをもって山口組に対する第一次頂上作戦は終結することとなった。
[編集] 註釈
- 註1 これらの団体の多くは後に名称を変更するなどして復活している。