吉川勇次
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吉川勇次(よしかわ ゆうじ1915年-1977年2月6日)は、ヤクザ、暴力団三代目山口組若頭補佐、吉川組初代組長
1915年三重県に生まれ4歳の時に神戸市に移住した。 神戸二中(現兵庫県立兵庫高等学校)に入学したが、父親の死で中退を余儀なくされた。 以降港湾労働者として働いていたが、徴兵され近衛兵となる。 1935年頃、喧嘩が縁となり、まだクスボリだった田岡一雄と知巳を持つ。1942年には殺人未遂で服役したが2年後に出所し、田岡と縁があり再会する。戦後は田岡組長と共に闇市などに、のさばっていた三国人退治に決死の奮闘をすることとなる。
1946年10月、田岡一雄が山口組三代目を襲名すると、一番最初に田岡と親子の杯を交わした若衆である。なおこの時、田岡一雄から吉川の子分だった大川覚、北山悟、平松資夫らも杯を与えられた。
その後、自ら吉川組を創設し、自身も山口組若頭補佐の要職に就くなど、山口組の渉外事は吉川勇次と言われるほどだった。生涯を通して田岡に忠誠を尽くしたが1977年2月に死去した。享年62才。没後吉川組は野上哲男に引き継がれた。
- 吉川組組長
- 初代: 194*-1977
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- 先代:
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- 次代:
- 野上哲男