岡精義
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岡 精義(おか せいよし、1906年12月 - 不明)は、ヤクザ、暴力団・三代目山口組舎弟、三友企業社長。
1906年 岡山県倉敷市に生まれ、幼少の頃から叔母の元で育った。 中学卒業後の1923年頃、17歳で単身 神戸市へ移住し港湾荷役の沖仲仕として働き始めた。1930年頃、当時 神戸の賭場で くすぼりだった田岡一雄(後の三代目山口組組長)と知り合った際、互いに金銭的に苦しかったこともあり田岡の借り上げた部屋に度々滞在し寝食を共にするようになった。その後、徴兵され、戦後 復員した。
1946年、田岡が山口組3代目を継承するのと同時に、田岡の若衆となった(後に舎弟に直る)。 戦後、組員に正業を持つことを奨励していた田岡は、自身としても山口組が初代より手掛けていた港湾荷役業務の取り仕切りを岡に任せることとした。 当時過酷な労働のため荒くれ者の多かった港湾荷役の沖仲仕界の秩序を守り、安定して労役に従事させるためには、ヤクザの様な強力な力が必要だったと言われている。
岡は1951年に港湾荷役業務を行う三友運輸株式会社(1952年に三友企業株式会社に改称)を設立し、自ら経営に当たる事になった。 経済復興に伴い1950年代前半以降 会社は順調に業績を伸ばし続け、山口組を支える存在となっていった。山口組が1950年代後半以降、若頭・地道行雄を中心に武闘派が全国進出を図っていく中、この岡の存在は その財政面を大きく支えることとなった。
自らは組員を一人も持たない企業舎弟ながら山口組最高幹部の一人であったため、1966年4月19日、警察の「第一次頂上作戦」の一環として恐喝容疑で逮捕された。 このとき既に経済的に安定し、企業経営も軌道に乗っていた岡は、山口組と関係を維持する必要が無くなっていた。 そうした状況で逮捕後の1966年5月5日に岡は獄中で山口組脱退を表明し渡世から身を引いた。
この岡の脱退で田岡は山口組として、大きな財政基盤である港湾荷役業から全面的に撤退することを決めることとなった。