柳川組
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柳川組(やながわぐみ)は、大阪に本拠を置く日本の愚連隊系暴力団で、三代目山口組の2次団体。 三代目山口組膨脹時(1960年~1964年)、全国征伐の先鋒組織として働いた (因みに山口組全国侵攻の主4団体は柳川組、地道組、菅谷組、小西組)。
柳川次郎が大阪 キタで形成した一派が発展して、1958年に「柳川組」として正式に結成。 1959年、柳川が三代目山口組若頭・地道行雄(地道組組長)から舎弟盃を受け、山口組に傘下入りした。
明友会事件の功労により1960年12月13日、三代目山口組(組長・田岡一雄)の直参に昇格。当時、全国のやくざ達は,恐るべき戦闘力の柳川組を『殺しの軍団』と呼んだ。 全盛期には73団体・組員1700名(準構成員含むと約2800名)を有し、全国1道2府10県に進出。『武闘派の柳川組』を山口組内外に知らしめた。その凶暴ぶりは凄まじく敵対している組織はもとより他の山口組系組織とも抗争事件を起こしたことがある。幹部の半数以上が在日韓国・朝鮮人だった。三代目山口組時代に2次団体でありながら広域暴力団に指定された唯一の組織でもある。
柳川が長期服役する事になった1964年に谷川康太郎 本名(康 東華 カン ドンファ)が2代目組長に就任したが、 その谷川も1967年暮れに逮捕される等、「第一次頂上作戦」に於いて集中的な取り締まりを受け、 遂に1969年4月9日、柳川と谷川は獄中から解散を声明。 2人は同年8月、“山口組本家に無断で組を解散した”事を問われて絶縁処分を受けた。 残存勢力は石田組組長・石田章六、野澤組組長・野澤儀太郎、金田組組長・金田三俊、藤原組組長・藤原定太郎の4人(所謂「柳川組四天王」)が1969年7月に山口組直参に昇格し、その後の山口組に於いて大きな位置を占めている。
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[編集] 1963年3月に指定された全国広域暴力団一覧
[編集] 歴代組長
- 初代(1958年~1964年):柳川次郎(本名:柳川魏志、梁 元錫 ヤン ウォン?。三代目山口組若中、元地道組舎弟。
昭和44年に組を解散した後は日韓親善友愛会名誉会長を務める。力道山、大山倍達と兄弟分で、極真会館の相談役でもあった。)
- 2代目(1964年~1969年):谷川康太郎(康 東華 カン ドンファ(別名、死神)。三代目山口組若中。)
[編集] 主な出身者
- 石田章六(石田組組長) - 後に章友会会長、六代目山口組顧問
- 野澤儀太郎(野澤組組長) - 後に一会会長、五代目山口組舎弟
- 金田三俊(金田組組長) - 後に四代目山口組舎弟
- 藤原定太郎(藤原組組長) - 後に藤原会会長、三代目山口組若中
- 木村忠雄 - 後に藤原会最高幹部、藤和会会長、五代目山口組若中
- 倉本広文 - 後に倉本組組長、宅見組副組長、五代目山口組若頭補佐
- 前田和男 - 後に前田組組長、黒澤組副組長、黒誠会会長、五代目山口組若頭補佐
- 小山十四郎(和歌山支部長、小山組組長) - 後に一会副会長、五代目山口組若中
- 福島三郎(北陸支部長、福島組組長) - 後に一会幹部、四代目山口組若中
- 紺谷久雄(紺谷組組長) - 後に一会幹部、四代目山口組若中
- 石間春夫(北海道支部2代目支部長) - 後に北誠会会長、初代誠友会総長、五代目山口組舎弟
- 田村武志(北海道支部3代目支部長) - 後に北海道誠友会会長、二代目誠友会会長、五代目山口組若中
- 福島末博 - 後に勝龍会会長、宅見組舎弟頭補佐、六代目山口組幹部