相馬氏
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相馬氏(そうまうじ、そうまし)は、下総国、陸奥国(磐城)を領した一族である。桓武平氏良文流千葉氏の支流。初代の相馬師常は鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男。下総、陸奥の他には分家、諸族は日本全土に拡散しているという。
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[編集] 変遷
師常が父常胤より相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を相続された事に始まる。
常胤の子の内、師常のみが「胤」の字を継承していない。伝承によると師常は平将門の子孫である篠田師国の養子とされ、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする。
師常の子孫は相馬御厨を中心として活動していたが、6代重胤の代に陸奥国(磐城)行方郡に入った。なお、下総に残留した一族は下総相馬氏となり、小田原の役で後北条氏に属し改易、江戸時代には旗本となっている。
[編集] 奥州相馬氏
奥州の相馬氏は、戦国時代には、行方郡・標葉郡・宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかったが、武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、奥州の大名・伊達氏、更に関東の雄・佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは三十度以上にわたって抗争を続けた。やがて伊達氏に伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に悉く降った時も、相馬氏は敗戦したとはいえ、独立を維持し伊達氏と戦う意地を見せたという。そして1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して所領を安堵され、近世大名として生き抜くことに成功した。
[編集] 相馬氏の残映
相馬氏の戦国大名としての意地を思わせる相馬野馬追が、現在でも行なわれ、後世に相馬氏の勇壮さを示しているが、一説には、これが、いわゆる「繋ぎ馬」の紋の原型になったとも云われる。
なお、「繋ぎ馬」の紋は、現在、築土神社や神田明神など、平将門を祀る諸社で社殿の装飾等に用いられている。
[編集] 相馬氏歴代当主
- 相馬師常(千葉常胤の子)
- 相馬義胤(相馬師常の子)
- 相馬胤綱(相馬義胤の子)
- 相馬胤村(相馬胤綱の子)
- 相馬師胤(相馬胤村の子)
- 相馬重胤(相馬師胤の子)
- 相馬親胤(相馬重胤の子)
- 相馬胤頼(相馬親胤の子)
- 相馬憲胤(相馬胤頼の子)
- 相馬胤弘(相馬憲胤の子)
- 相馬重胤(相馬胤弘の子)
- 相馬高胤(相馬重胤の子)
- 相馬盛胤(相馬高胤の子)
- 相馬顕胤(相馬盛胤の子)
- 相馬盛胤(相馬顕胤の子)
- 相馬義胤(相馬盛胤の子)
- 相馬利胤(相馬義胤の子。相馬藩初代藩主)
- 相馬義胤(相馬利胤の子)
- 相馬忠胤(土屋利直の子)
- 相馬貞胤(相馬忠胤の子)
- 相馬昌胤(相馬忠胤の子)
- 相馬叙胤(佐竹義処の子)
- 相馬尊胤(相馬昌胤の子)
- 相馬恕胤(相馬叙胤の孫)
- 相馬祥胤(相馬恕胤の子)
- 相馬樹胤(相馬祥胤の子)
- 相馬益胤(相馬祥胤の子)
- 相馬充胤(相馬益胤の子)
- 相馬誠胤(相馬充胤の子)
[編集] 系譜
凡例 太字は当主、太線は実子、細線・二重線は養子 師常 ┃ 義胤 ┃ 胤綱 ┃ 胤村 ┃ 師胤 ┃ 重胤 ┃ 親胤 ┃ 胤頼 ┃ 憲胤 ┃ 胤弘 ┃ 重胤 ┃ 高胤 ┃ 盛胤 ┃ 顕胤 ┃ 盛胤 ┣━━━┓ 義胤 隆胤 ┃ 利胤 ┃ 義胤 | 相馬忠胤 ┣━━━┓ 貞胤 昌胤 ├━━━┓ 叙胤 尊胤 ┃ 徳胤 ┃ 恕胤 ┃ 祥胤 ┣━━━┓ 樹胤 益胤 ┣━━━┳━━━━┓ 充胤 佐竹義尭 佐竹義諶 ┣━━━┓ 誠胤 佐竹義理
[編集] 相馬氏関連人物
一門
- 相馬隆胤(相馬盛胤(十五代)の次男)
草野氏
木幡氏
水谷氏
泉田氏
- 泉田胤清
- 泉田胤直
江井氏
- 江井胤治
[編集] 参考文献
- 七宮涬三『下総・奥州相馬一族』(新人物往来社、2003年) ISBN 4404031467