神田明神
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神田明神(かんだみょうじん)は東京都千代田区外神田二丁目にある神社。江戸時代には神田明神と呼ばれたが、明治維新以降は神田神社が正式名称となっている。明治に入り、准勅祭社に制定され、現在は東京十社のひとつ。
[編集] 沿革
社伝によると天平2年(730年)に創建。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。当初の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)であったが、平将門の首塚が近くにあったので、延慶2年(1309年)に平将門神も合祀されるようになった。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。明治維新後、明治天皇行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。現在の祭神は3柱で序列は、一ノ宮に大己貴命、二ノ宮に少彦名命、三ノ宮に平将門神となっている。
江戸時代初めには江戸城の鬼門除けとして尊崇され、神田祭の山車(当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した)は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、一名「天下祭」とも言われた。現在、神田祭は京の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭とされ、とくに「神田囃子」は無形文化財に指定されている。
江戸初期に豪華な桃山風社殿が造営されたが、1923年の関東大震災で焼失した。その後再建され、1945年の東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れた。
また、野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次が当神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、敷地内に銭形平次の碑がある。(銭形平次自体は架空の人物)
[編集] 伝説
この神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけない事と云われている。これは当時の朝廷から見て東国(関東)において叛乱を起した平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。即ち、成田山新勝寺を参拝することは平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。
なお、同じく平将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。平将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。