相馬誠胤
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相馬 誠胤(そうま ともたね、嘉永5年8月5日(1852年9月18日) - 明治25年(1892年)2月22日)は江戸時代の大名。陸奥相馬中村藩主。前藩主・相馬充胤の次男。初名は季胤。通称は吉次郎、吉太郎。官位は従五位下因幡守。明治に入り、贈正四位子爵。
嘉永5年(1852年)8月5日誕生。慶応元年(1865年)4月24日、父充胤の隠居により、家督を相続する。幕末の動乱期は、小藩のために主体的な行動をとれなかった。慶応4年(1868年)2月、鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北を受けて家老を上洛させる。しかし、その後、東北諸藩の行動にあわせて、奥羽越列藩同盟に参加し、新政府と戦うことになる。8月6日、新政府に降伏し、8月9日、父充胤とともに長松寺に入り、謹慎する。明治2年(1869年)6月22日、誠胤は中村藩知事になる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により、知事免職となる。
明治12年(1879年)4月14日、親族らは精神的な病気を理由に宮内省に誠胤の自宅監禁を願い、翌日、許可される。これに対し、明治16年(1885年)12月10日、旧中村藩士錦織剛清は、財産横領をはかる異母弟相馬順胤らの不当な監禁であるとして、誠胤の解放などを申し入れた。いわゆる相馬事件のはじまりである。錦織は相馬家を不法監禁・財産横領で告訴した。一方、相馬家も弁護士星亨を雇い、錦織を誣告罪で告訴した。
明治25年(1892年)2月22日、訴訟の泥沼化するなかで誠胤は死去した。錦織は、誠胤の死亡を毒殺であると訴え、遺体解剖が行われた。しかし、解剖の結果、毒殺でないことがわかり、錦織は誣告罪で重禁錮四年の刑が確定するにいたった。なお、明治17年(1884年)相馬誠胤は子爵になっており、爵位は実弟順胤に継承された。
正室は戸田光則の娘。長男秀胤は、旧出羽天童藩主織田信敏の養子となり、織田信恒と改名した。織田信敏の父信学の正室が、相馬家出身であったためと考えられる。